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歯科と語学のイーストレーキ親子 [青山・外人墓地]

Eastlake1_1.jpg 北海道の牧畜に貢献したエドウィン・ダンのお墓の東側に大きな墓標と石碑が並んでいる。墓標は「博言博士イーストレーキ先生墓」。碑は「イーストレーキ先生の碑」。まず碑文を読んでみる。

「ウイリアム クラーク イーストレーキ先生ハ天保五年英国ノ名族ニ生ル 後米国ニ帰化シ万延元年家ヲ挙ゲテ来朝ス 明治二年愛息教育ノタメ一家相携ヘテ日本ヲ去リ 明治六年米国オハヨー歯科大学ノ学位ヲ得 欧州各国ヲ遍歴シテ明治十四年再度我邦ニ来ル 以来横浜ニ於テ歯科医業ニ従事スルコト七年間 二十年二月二十六日東京ニ於テ逝去シ此地ニ葬ル 先生ハ実ニ我国ニオケル泰西歯科医学開発ノ先駆ニシテ明治文化ニ貢献セシ 博言語士イーストレーキ氏ノ父ナリ 今先生ガ五十年忌辰ニ方リ同志相議シテ其ノ功労ニ酬ユル謝意ヲ表セシカタク茲ノ此ノ碑ヲ建ツ 昭和十一年二月 社会歯科医学会撰」

 父は泰西(=西洋)歯科の開祖。碑文とダブルが清水正雄著『東京築地居留地百話』を参考に彼の経歴をまとめる。1834年、米国生まれ。18歳で歯科医。妻はローズ。万延元年(1860)に一家で横浜へ。歯科医術普及のかたわら趣味の貝類や昆虫を採集。だが横浜は攘夷暴徒の危険で香港で開業。以後、横浜でも開業するが、長男の教育のために渡独。

 明治8年、駐独公使・品川弥太郎に伴われて日本へ。入船町から本所横綱町で開業。そして香港へ。明治14eastlakehaka5_1.jpg年(1881)、家族会議をもって日本で落ち着くことを決定。横浜居留地で開業。明治20年に身体を壊して54歳で永眠。彼がかつて開業していた横浜・山下町に「我国西洋歯科医学発祥の地」記念碑が建っている。

 息子イーストレージは明治17年、25歳で来日。翌年に築地居留地に居住して日本紹介の週刊英字新聞「トーキョー・インディペンデンス」他を発行。神田小川町に東京英語学校を開設など多彩に活躍。23ヶ国語に精通で〝博言博士〟と呼ばれた。

 明治21年に太田ナオミと結婚。8人の子女を得る。『ウェブスター新刊大字典』の和訳本、『英和実用熟語慣用句辞典』を著わす。明治38年、風邪と過労で病床。市中の病院は日露戦争の傷痍兵でいっぱい。やっと二番町の回生病院に入院も手遅れ。47歳で逝去。墓碑は尾崎行雄らが建立。

 日本人の誰もが「歯科」と「英語」でイーストレーキ親子の世話になっていよう。小生、そろそろ歯医者に行かねばならない。


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