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原爆・象徴天皇・憲法九条の幣原総理 [青山・外人墓地]

sidehara2_1.jpg 電信事業の父「ウィリアム・ストーン」掃苔へネットで調べた地に行けば、それは誤記で「ヘンリー・ウィラード・デニソン」の墓地だった。デニソンを調べたら、彼を師とした幣原(しではら)喜重郎に出会った。

 彼は小生が1歳の時の総理大臣。外務大臣時代は、軍部に反した平和外交=幣原外交を展開。大臣を辞した戦時中は、貴衆両院議員が一斉に大政翼賛会に入ったが、彼一人だけ最後まで入会を拒んだ。恫喝の憲兵へ信念を説けば、彼らは納得して帰ったらしい。別荘での隠居暮らし準備中に、天皇陛下の御召しで戦後組閣の大命を拝し、73歳にして昭和20年(1945)10月9日~昭和21年5月22日の第44代内閣総理大臣に就任。

 日本国憲法(平和憲法)の公布が昭和21年11月3日。施行が昭和22年5月3日。幣原内閣は昭和21年3月6日に憲法改正草案を採決。4月10日に戦後最初の総選挙。日本自由党が第一党になるも過半数に至らず。幣原内閣が総辞職し、自由党総裁・鳩山一郎が組閣着手も公職追放処分で吉田茂内閣が誕生。平和憲法の公布・施行は吉田内閣だが、そのお膳立てをしたのは幣原総理だった。

 以上は宇治田直義著『幣原喜重郎』(時事通信社、昭和33年刊)と、平野三郎著『平和憲法秘話』(講談社、昭和47年刊)による。また両著には「象徴天皇」と「戦争破棄・第九条」成立の経緯・意図が詳しく記されていた。

 現在、改憲派は「現憲法はGHQの押し付けだから」と主張しているそうだが、そんなことはなくて、幣原総理の発案にマッカーサー元帥も感動しての現憲法だということもわかる。両著から当時の世界情勢・現憲法の意図・経緯を要約してみた。

 昭和20年10月9日の幣原総理就任2日後に、幣原首相とマッカーサー最高司令官が会談。総司令部の意向が〝憲法改正をもって戦後の出直し〟と知る。その重要要件は五つ。選挙権付加による婦人解放、労働組合奨励、自由教育、秘密警察などの廃止。

 松本国務大臣による憲法問題調査委員会によって新憲法草案(松本案)が出来た。だが昭和21年2月13日に連合軍総司令部から日本政府と会見したい旨があり、松本国務相と吉田外相がホイットニー少将らと会えば、松本案は一蹴。次の基本原則、根本形態とした案を大至急作成されたしと(一)主権は人民に属し、天皇は象徴とする。(二)軍備は永久に破棄するなどの新・主要5項目が提示された。

 総司令部が示す重要項目の変化理由の裏に何があったや。松本国務相は昼夜兼行で再び脱稿。急かされて日本文のまま提出。細部修正に松本は怒って席を立ち、佐藤法制局長官と木内四郎内閣副書記が対応した。作業は徹夜に及んだ。この経緯から〝GHQの押し付け憲法説〟が生まれたらしい。

 昭和31年(1959)の内閣設置「憲法調査会」高柳賢三会長は、その成立経緯に賦に落ちぬ〝裏〟があったと気付く。高柳博士はマッカーサー元帥が解任後の米上院軍事外交合同委員会で喚問された際に「日本の首相が私のところに来て〝長い間考えた末、<この問題>に対する唯一の解決策は、戦争をなくすことだと信じるに至ったと言った。私は同意すると彼は〝世界はわれわれを夢想家といってあざけり笑うだろうが、百年後にはわれわれは予言者と言われるだろう〟と言った。彼らは自分の意思であの憲法にあの条項を盛り込んだ」

 またマ元帥はあちこちで〝日本人は自らの意思で平和憲法を作った〟と説明してまわったらしい。高柳博士はマ元帥にその真相を確かめるべく、昭和34年に調査団を編成して渡米したが要領を得ず。さて<この問題>、<平和憲法誕生の理由・経緯>とはいかに?

 米国は終戦がスムーズに出来たのは天皇のせいと判断し、天皇の人間化を決めていた。だが豪州やニュージーランドは日本の〝皇軍〟時代の恐怖ゆえ、天皇問題に関してはソ連に同調する気配だった。ヤルタ会談後に連合軍の足並みは乱れ、米国はソ連の日本占領を恐れた。よって原爆投下をもって早期終戦を計った。

 そうした情勢下での新憲法。幣原総理がひねり出した「象徴天皇と戦争放棄」の同時提案に、それなら豪州その他も米国に歩調を合わせて、ソ連に対抗できると膝を打った。

 この幣原・マ元帥の極秘会談が行われたのは、GHQが「象徴天皇」「戦争放棄」を基本にした憲法草案提出を迫った20日程前の昭和21年1月24日。会談は極秘ゆえ表向きは、首相の肺炎にマ元帥がペニシリンを贈ってくれたお礼訪問。〝幣原外交〟でならした彼の英語力は第三者を介さず、二人だけで3時間に及んぶ会談になった。この平和憲法は日本側(幣原総理)が先導するよりマ元帥の命令の形にした方がスムーズに行くだろうとも判断された。

 後に幣原喜重郎は、この件に関して「まだ〈公表する)時期ではない」として、誰にも語らぬまま墓場に持ち去った。満78歳没。だが、この極秘会談を物語る公式記録が一つだけ遺されていた。昭和25年5月3日の憲法記念日祝典に当って幣原議長がマ元帥を訪問した際のマ元帥の発言がこう記録されていた。

「日本憲法制定に当たり、幣原君は一切の戦力を放棄すると言われた。私は50年早過ぎる議論ではないかという気がした。少し早過ぎた感じもする」

 『平和憲法秘話』著者の平野三郎は、24年に衆議院当選で幣原喜重郎の側近になった。昭和26年3月、先生が亡くなる少し前に、日向ぼっこしつつ憲法について話を伺った。「新憲法によって天皇は権力の座になかった本来の昔に還った。第九条は〝死中に活〟。いずれは軍備を持つべきだという意見もおこるだろうが、改正のことなど考えるに及ばない。悠々とやって行けば、やがて世界中が日本を見習うようになるだろう」と呟いた。

 それらをまとめた文章が〝平野報告書〟。高柳博士はそれを読むとニンマリして、こう言った。「幣原さんは一世一代の大芝居をうたれたんですね」。博士は憲法成立の真実を正確に推察されていたと平野は記した。

 また平野著の「あとがき」最後には、幣原首相の説明文として、以下が記されていた。「原子爆弾の発明は、世の主戦論者に反省を促しましたが、今後は更に幾十倍幾百倍する破壊力ある武器も出現を見るでありましょう。(中略)短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く廃燼に帰すを見るに至りますれば、その秋(とき)こそ、諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるでありましょう」。広島を訪れたオバマ大統領にも、第9条を破棄しようとする人々にも、また若い人々にも知っていただきたい言葉です。

 今年5月3日のテレビ「報道ステーション」でも同じような特集があったらしいが、こればっかりは自分で調べ読むことが大切だと思った。実は小生、GW後の大島暮らしで「遅まきながら憲法をお勉強」と若い憲法学者・木村草太の新書を2冊繰り返し読んでいたが、何が何だかさっぱりわからず。「この人の著作はだめだぁ~」と悶々としていたんです。彼の著作には当時の現状分析や情況把握が希薄ゆえだろうか。

 実は伊豆大島も終戦後に政府からの沙汰なしにしびれ、島民主権の独自憲法を作った経緯がある。まぁ、それは別にして、次は若い幣原喜重郎がデニソンから何を学んだかを探りつつ、ヘンリー・ウィラード・デニソンを掃苔しようと思った。

 ★追記 :8月12日の東京新聞1面に「9条は幣原首相が提案、マッカーサー書簡に明記」の記事があった。幣原喜重郎首相が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。これで一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押し付け」とする根拠は弱まるという内容。

 堀尾氏は国会図書館の憲法調査会関係資料を探索。57年の岸内閣下の憲法調査会の高柳賢三会長による、58年12月のマッカーサー宛ての質問の返信に「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記されていること。また別の返信では「本条は世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものです」と2信の全文が紹介。1面の他にも12面でも詳細が報じられていた。


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