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もう一人の暁斎弟子、F.ブリンクリー [青山・外人墓地]

brinkley1_1.jpg 「河鍋暁斎とコンドル」の関係から、本題のフランシス・ブリンクリー(Francis Brinkly)の掃苔へ。外人墓地ではなく一般墓地「1イ1:28-3」(管理事務所の裏辺り)。傾きかけた大きな自然石墓標。墓碑銘の英文は左書き、日本語は〝右横書き〟。墓碑銘通りに記せば以下の通り。

「墓之ークンリブスシンラフ等二勳」。その下が英文で、下に「墓之子安妻 卒日九十月四年七和昭」。夫妻の墓になっている。裏側には「一千九百十二年四月二十八日永眠」。ブリンクリーが71歳で亡くなった明治45年の日付。隣にある二つの墓は子らの墓だろう。

 ブリンクリーの経歴は、絵画趣味から入ったゆえ『河鍋暁斎画集3 絵日記・資料』掲載記述を参考にする。ブリンクリーは1841年にアイルランド・ミーズ州の名家で生まれた。英国陸軍砲工学校卒。元治元年(1864)、従兄の香港総監リチャード・マクドネルの副官として香港に滞在。

kawanabee1_1.jpg 慶応3年(1867)、英国日本公使館補及び守備隊長として香港から来日。(公使館が慶応2年に横浜から泉岳寺前に仮移転した頃)。その頃に武士の果し合いに遭遇。勝者が斬られ死んだ相手に自分の羽織をかけ、跪いて合掌する光景を見て、日本に惚れたとか。明治4年(1871)、海軍省のお雇い軍人になって、海軍砲術学校・主任教師に就任。明治6年、『語学独案内』を出版。明治11年(1878)に水戸藩士の娘・田中安子と結婚(英国人と日本人の正式結婚第1号)。同年より工部大学校の数学科教師。

 明治14年(1881)に「ジャパン・メール」紙買収。経営者兼主筆。社説、宗教、美術関係の記事は自ら執筆らしい。社説では常に日本擁護。日英同盟も彼の筆によるところ大とか。日清戦争後は「ロンドン・タイムズ」の日本通信員も兼務。その他、日本郵船会社顧問。陸奥宗光との親交から外務省の書類の英訳の大部分を担当。

brinklyhaka2_1.jpg 仕事の合間には「茶の湯」をたしなみ、日本美術に造詣深く、陶磁器は蒐集かつ鑑定権威者。日本の歴史や政治、美術に関する著述多数。(「和英大字典」「Japan and Chine」「The Art of Japan」「History of the japanese People」など)

 河鍋暁斎・コンドルと日光へ写生旅行をしたのは、官舎新築中のコンドルを自宅(飯田町)に同居させていた明治18年。翌年にコンドル訪欧の際に、コンドルに代わって暁斎の出稽古を受けた。当時の暁斎「絵日記」にはその様子が描かれていた。(カットは「ぶれんき君 画帳ヲ見テヨロコブ」)

 彼の日本美術への関心はその前からで、明治10年頃の古書店主が〝弁慶〟と称した彼が多数浮世絵や暁斎の錦絵などをセッセと購入していた、と思い出を語っている。大正元年10月、広尾の自宅で逝去。家族は妻・安子との間に二男二女。

 息子のジャック・ロナルド・ブリンクリーについては、サイト「名和伯耆守戯言」を参考にさせていただく。彼は暁星中学卒後にヨーロッパ各地大学に留学。第一次大戦は英国の陸軍将校として従軍。第二次大戦では日英の架け橋になろうとするも軍部は「敵国人」として財産没収や父の資料破棄、国外追放。それでも戦後に日本へ戻って極東軍事裁判検事団の翻訳課長。その後は軍籍を離れて大学で英文学の教授。日英文化交流の出版社を興すなどした。昭和39年(1964)、77歳で死去。仏式の葬儀だったという。

 今回の似顔絵は、まず全面にセピア色を塗り、白で描き出す方法に初挑戦してみた。


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