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河鍋暁斎とコンドルとブリンクリー [青山・外人墓地]

conder2_1.jpg 青山霊園の一般墓地に眠る〝お雇い外国人〟の一人に、河鍋暁斎・コンドルと一緒に日光写生旅行に行ったフランシス・ブリンクリーがいる。

 すでに河鍋暁斎の画集や関連書の幾冊かに目を通していたから、ジュサイア・コンドル(Josiah Conder。建築家。鹿鳴館など多数設計だが、現存するのは岩崎邸、旧古河邸、三菱一号館など)が熱心な弟子だったことは知っていたが、ブリンクリーも暁斎の弟子だったとは知らなかった。

 ブリンクリーの本題に入る前に、前段として「コンドルと河鍋暁斎の関係」をまとめておく。(コンドル著『河鍋暁斎』の訳者解説文を参考)

 コンドルの入門は明治14年。コンドル29歳、暁斎50歳。彼は自身設計の上野美術館で、狩野派・暁斎の『枯木寒鴉図』に魅せられての入門。明治初頭は欧州にジャポニズムが広まった時期で、彼は在日外国人の日本研究組織「日本アジア協会」(明治5年創立の日本最古の学術団体で今もある)に入会。明治13年に「日本衣裳史」を発表など日本文化に強い関心を抱いていた。

 暁斎に入門当初は工部大造家学科の教師と官営建造物の設計施工で超多忙。毎土曜に暁斎に泊り込み出稽古を受けていたが、明治15年に同校から解放され、土曜日たっぷりの出稽古を受けたらしい。暁斎は本郷湯島から人力車で麻布のコンドル官舎へ。来日前にすでに水彩画名手だった彼は、たちまち暁斎の画技を習得。明治17年の内国絵画共進会に『雨中鶯図』出品で金銀銅賞の次の「褒状」綬章。氏から「暁英」の号をもらった。

 暁斎とコンドルとブリンクリーが日光写生旅行に行ったのは明治18年8月1日から10日間。これはコンドルの官舎新築中に、彼がブリンクリー宅(当時、麹町飯田町)に同居してい、それが縁でブリンクリーも絵を習い始め、スケッチ旅行に参加したらしい。

 コンドルの影響もあってか、お雇い外国人ではドイツの医師ベルツ(暁斎の胃癌を診察)、御真影を描いたキョソーネなども暁斎作をコレクション。そしてブリンクリーは明治19年頃に、自分のために描かれた暁斎作品をはじめ、画帳や額装の優美仕上げの暁斎画、掛け軸の逸品も所有したらしい。

 コンドルは日本画の他に日本造園、生け花、日本舞踊もお勉強。踊りの稽古で知り合った花柳流の「前波くめ」と結婚。結婚前に芸者に産ませた美貌のヘレンを引き取った。コンドル夫妻の墓は護国寺だが、ここでのテーマはフランシス・ブリンクリーゆえ青山霊園の彼の墓の掃苔へ向かう。(続く)


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