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スペイン内戦で戦死のジャック白井 [青山・外人墓地]

sirai1_1.jpg ピカソ『ゲルニカ』のスペイン内戦で、米国から義勇軍参加で戦死した「ジャック白井」がいる。その名が青山霊園「解放運動 無名戦士の墓」に刻まれているらしい。ジャック白井の実際の墓は、ファシスト軍(民主主義を否定した独裁主義の軍)の弾丸が彼の頭部をぶち抜いたマドリードの西、ブルネテのオリーブの木の下。

 スペインと云えば、若者らにとって今はサッカーだろうが、かつて第二次世界大戦の前哨戦のようなスペイン内戦があり、そこでジャック白井が死んだ。川成洋『ジャック白井と国際旅団』、石垣綾子『スペインに死す』(オリーブの墓標 改訂版)を読み、勝手解釈を加えてまとめてみた。

 白井の出自は不明。函館生まれ。修道院育ち。波止場で〝カンカン虫〟など子供の肉体労働から、搾取されるばかりの下級船員。そして貨物船のコックになってニューヨークで密入国。昭和4年(1929)、日本人レストランで働き出した。ややしてウォール街暴落から世界恐慌へ。街に失業者が溢れ、ストとデモの日々。彼は次第に労働運動に目覚めて行った。

 昭和9年(1934)、圧制続きのスペインで民衆が武装蜂起の「10月闘争」。解放区を得るも軍隊に鎮圧された。その指揮官がファシストのフランコ将軍。ムーア人傭兵を指揮して残虐を繰り広げたらしい。2年後の昭和11年(1936)、総選挙で人民戦線内閣が成立するも、地下に潜ったフランコらはモロッコ領でクーデター。彼らになんと独・伊が加わった。

mumeisensi1_1.jpg ドイツはその3年前にナチス独裁体制確立。イタリアはその10年前からムッソリーニ体制。日本でも昭和12年(1937)に日中戦争勃発で軍部暴走が始まる。かくしてスペイン内戦は、第二次世界大戦の前哨戦の呈。共和国側にソ連が参加。仏米は不干渉宣言だが〝ファシストから民衆を守れ〟と秘密裏に各国の義勇軍が次々にスペインに入った。

 ジャック白井らの米国義勇兵がスペインに入ったのは昭和11年(1936)12月。だが共和国側は社会主義者、アナキスト派、ソ連の戦略・指揮に統一なし。加えて義勇兵に満足な武器もない。片や独・伊軍+残虐傭兵を率いるフランコ軍。勝てるワケもない。

 ジャック白井は前歴コックで炊事班だが、次々に犬死する仲間に我慢できずに歩兵に。翌年7月、彼らがマドリードの西、ブルネテの谷に到着すれば、そこはすでに独・伊砲兵隊、ムーア人部隊に囲まれていた。動きがとれず食料も尽きた。「俺がとってくる」と塹壕から出た白井の頭を銃弾が打ち抜いた。享年37歳。

 昭和14年(1939)、フランコ将軍の独裁政権樹立。内戦死者50万人、処刑数万人、亡命者多数とか。同年に第二次世界大戦突入。内戦疲弊のスペインは独・伊に曖昧な態度で参戦を拒み続け、フランコは昭和50年(1975)没まで独裁政権を続行。

 ジャック白井は死後30年後の昭和40年に「解放運動 無名戦士の墓」の銅板にその名が刻まれたらしい。同墓地には主権在民、戦争反対などを主張して逮捕・投獄・拷問された人々(2004年時点で3万余名)の名が刻まれて納められているらしい。

m_takebasijiken4_1[1].jpg 同墓は青山霊園の東端にあるが、その反対側(外苑西通り側)窪地に明治11年の近衛兵決起「竹橋事件」で53名が銃殺された碑はあることも忘れてはいけない。貧しき農家青年らで構成された兵士らが西南戦争に駆り出され、生き残った兵らは相変わらず月給数円。陸軍卿の山縣有朋(やまがたありとも)は1400円の月給。金銭・権力欲しいままの明治政治家への不満で立ち上った彼らを銃殺する3日前に「軍人訓戒」、それが絶対君主の「軍人勅論」になって「大日本帝国憲法」に至る。

 今、日本の「平和憲法」を「大日本帝国憲法」に戻そうと目論む巨大右翼団体(各神社の神道系諸団体+仏教系宗教諸団体などで構成。ルーツは「成長の家」の右派学生信徒組織)が、現内閣を支える(=巨大集票を稼働)見返りに「改憲」を要求らしい。若き著者・菅野完がマスコミもタブーだった『日本会議の研究』を刊。目下、新書のベストセラー中。


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