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日本橋「日本橋ただ一すぢに都まで~」 [狂歌入東海道]

nihonbasie1_1.jpg 第一作目は「日本橋」。狂歌は「日本橋ただ一すぢに都まで遠くて近きはるがすみかな」。「橋・都・遠」のくずし字は、よく出てくるから覚え慣れる他にない。あとは濁点省略多々ゆえ、適当に濁点読みを試みると意が通じたりする。たた=ただ(只)、すち=すぢ(筋)、まて=まで(迄)、はるかすみ=はるがすみ(春霞)。

 「狂歌入り東海道」は五拾五枚目が「京都・三条大橋」、五拾六枚目が「京都・内裏」。日本橋~京都三条まで約495㎞。一日平均33㎞を歩いて13~15日(片道)行程。のんびり歩けば一ヶ月。急げば11日。京は近いか遠いいか。雅だろうか。春霞でぼやけているよ、と詠まれている。

 保永堂版「日本橋・朝之景」は大木戸が開いた朝の日本橋を、西へ旅立つ大名行列を正面から描き、魚屋らが慌てて脇に避けている図。比して「狂歌入り東海道」は日本橋を真横から描いている。背後は江戸城だから、大名行列は南詰方向へ。高輪大木戸(地下鉄・泉岳寺脇)を出れば東海道の始まり。西の空は春霞で富士山が見える。

nihonbasimeko2_1.jpg 広重が「東海道物」を描くに至ったのは、十返舎一九『東海道中膝栗毛』(享和2年に初編刊)の大ヒットが影響とか。なお広重は安政2年(1855)に十返舎一九の膝栗毛の双六も描いている。かくも長いロングセラーだった『膝栗毛』の弥次喜多にも、この「狂歌入り東海道」机上旅にもご参加を願おう。では〝弥次喜多〟とはいかなる人物だったか。

 弥次さん(弥次郎兵衛)は駿府の親の代から続く商人(中年のおじさん)で、彼が大借財するほど入れ込んだ〝陰間〟が喜多八さん。遊び尽くして大借金。江戸へ逃げてきて十年ほど。共に二枚目に程遠い容貌の〝ホモダチ〟てぇから驚く。そこを原文筆写した。

「旅役者華水多羅四郎が抱の、鼻之助(後の喜多八さん)といへるに打込、この道に孝行ものとて、黄金の釜を掘いだせし心地して悦び、戯気(たわけ)のありたけを尽し、はては身代にまで途方もなき穴を掘明て留度なく、尻の仕舞は若衆とふたり、尻に帆かけて、府中(駿府)の町を欠落するとて」

 筆写の右側が日本橋の狂歌。左文は弥次喜多の二人が〝ホモダチ〟と記された膝栗毛の文。なお喜多八は北八の表記もあるが、ここでは喜多さんで通す。さて筆写は相変わらずの使い古した筆ペン・コピー紙。書道とは無縁です。版画写真も机上に置いて手持ち・ストロボ撮影のいい加減さ。ご了承下さい。

 参考資料:歌川広重「佐野喜版 狂歌入り東海道五拾三次」(日本木版発行)、ボストン美術館の「狂歌入り東海道五拾三次」紹介頁、画集「歌川広重 東海道五拾三次」(保永堂版/解説・吉田漱/集英社刊)、早稲田大学・古典籍データベース/十返舎一九「東海道中膝栗毛」、小学館刊・日本古典文学全集「十返舎一九 東海道中膝栗毛」(校注・中村幸彦)、岩波文庫「東海道中膝栗毛」(校注・麻生磯次)、麻生磯次『芭蕉物語』(上・中・下巻)、田辺聖子「東海道中膝栗毛を旅しよう」(角川ソフィア文庫)、森川昭著「東海道五十三次 ハンドブック」(三省堂)、今井金吾著「今昔東海道独案内」、綿谷雪「考証 東海道五十三次」、なだいなだ「江戸狂歌」、永井荷風全集、叢書江戸文庫「十返舎一九集」(校訂・棚橋正博)。「広重の世界~狂歌入東海道~」(豊川市二川宿本陣資料室編集・刊)、小説では松井今朝子「そろそろ旅に」、諸田玲子「きりきり舞い」。また机上旅ゆえ市町村サイトや東海道ウォークのブログも参考にさせていただきつつ始めます。他参考資料はその都度記して行きます。


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