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品川「送り来る旅の別も親舟を~」 [狂歌入東海道]

sinagawae1_1.jpg 第二作目は「品川」。狂歌は「送り来る旅の別も親船を見かへりながら過る品川」。

 保栄堂版「品川・日乃出」では右側に御殿山の裾野(八つ山坂との合流辺り)が描かれ、品川宿入口の茶店前を大名行列のしんがりが歩いている。

 この「狂歌入り東海道」は品川宿の中ほど。旅籠が軒を連ねる光景は「内藤新宿」とまったく同じだ。ならば手前の茶屋には〝やり手〟がいて飯盛女の斡旋をしていたか。弊ブログで『甲驛新話』全筆写・読み下しをしているから、飯盛旅籠の遊び方はすでに紹介済み。

 品川宿は「北の吉原、南の品川」と言われたとか。飯盛り女の人数は内藤新宿250人に比して品川宿は500人。取締れば、その数倍も捕まった。ここからも品川宿の賑わいが伺える。

 五十年ほど前に小生は若いPRマン見習いで、品川にあった「T社」に通ったことがある。当時は品川駅に隣接して、新宿西口〝思い出横丁〟のような一画があったように記憶しているが、とうの昔になくなっているだろう。

sinagawa2syu1_1.jpg 数年前に、自転車で品川駅先から「旧東海道」を大森辺りまで走った。商店街が「旧東海道」風情を演出して頑張っていたが「北は吉原、南は品川」なぁ~んて事を言うわけもない。それでも古い商店やお寺に昔の風情があり、路地を入れば長屋に井戸の横丁も残っていたりした。

 品川宿の範囲は現・京急線「北品川~青物横丁駅」辺りらしい。街道脇は海だったが、今は「大井埠頭」まで埋め立てられている。海の向こうは近代高層ビルが立ち並ぶお台場だ。

 一方、陸側の「八つ山」は江戸期に道路整備や目黒川護岸工事などで切り崩されて平地となり(参考:品川区のサイト)、御殿山は幕末の品川台場を築くための土砂採掘で削られた。絵は広重得意の俯瞰図だが、八つ山や御殿山から見下ろせば、この図のように宿場の向こうに海が広がっていただろう。

 だが、実際にここを歩いた旅人は「親舟・子舟」の情景より、飯盛旅籠の女らに眼をキョロキョロ。見送人らの「変な女につかまるなよぉ~」の掛け声が聞こえてくるような気もする。

 ここで弥次喜多コンビはまだ得意の下世話さを慎み、こんな歌を詠んでいる。弥次さん「海辺をばなどしな川というやらん」に、喜多さん「さればさみづのあるにまかせて」。海辺をば(強調=なのに)なぜ品川なんだろう、されば鮫洲(さめづ=さみづ=真水)があるじゃないかと洒落ている。

 京急線「青物横丁駅」の次が「鮫洲駅」。東京の免許取得者のほとんどがここで筆記試験を受けている。広重『名所江戸百景』に海苔養殖の光景を描いた「南品川鮫洲海岸」がある。この海に出没の大鮫の腹から聖観音が出で「鮫洲」の地名になり、それが海晏寺のご本尊らしい。

 品川は目下、2020年に向けて新駅をはじめ大規模再開発が計画中とか。江戸探しはさらに難しくなってくるだろう。 


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