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藤澤「うちかすむ色のゆかりのふち沢や~」 [狂歌入東海道]

fujisawae1_1.jpg 七作目は「藤澤」。狂歌は「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲井をさして登る春かな」。意は「雲井(大空)に向かって春の陽が登ってほのかに色づいて行く藤沢や」。

 弥次喜多らは昨夜、飯盛女が夜の相手をしてくれなかったことに自棄気味の歌を詠んでいた。「一筋に親子とおもふおんなより只二すじの銭まうけたり」。結果的に二筋(一筋は銅銭百文。二筋で二百文)使わずに儲けたようなものだ。

 かつて勉強した江戸金銭事情によれば、一文=二十円ほど。二百文で四千円。それは米三升分。畳職人の日給二百六十七文に足らず。江戸の裏長屋家賃四百文の半分ほど。「ふ~ん、そんな金額だったのか」と思った。古語辞典に「まうけ=ごちそう」で利益とは別とあった。

fujisawauta1_1.jpg 広重は藤沢を多角度から描いている。この「狂歌入り東海道」は遊行寺側から橋向こうの鳥居と宿場町を描いて背景左は大山。「宝永堂版」は橋の向こう側、鳥居側から橋を見て遊行寺と門前町を描いている。「隷書東海道」は夕闇迫った宿場内で旅人と客引きの様子で、橋の端が見えている。「蔦屋版」は宿場を越えて大山道が分岐する立場茶屋。「五十三次名所図会」は平塚寄りの松林の風景が描かれている。

 遊行寺には飯盛女の墓が四十余基あるとか。また永勝寺には旅籠・小松屋源蔵一家の墓があり、同家雇いの飯盛女四十四人と下男四人の記録あり。四十一年間に四十四人が亡くなっているそうな。(北小路健「古文書の面白さ」より)。吉原の「浄閑寺」、内藤新宿の「成覚寺」のような役割も負っていたのだろう。

 この橋は現・遊行寺橋(昔は大鋸橋とか)で、鳥居はここから5㎞先の江ノ島弁天の第一の鳥居。藤沢は東海道、江の島への道、大山道、さらには鎌倉街道の分岐点で多くの人が行き交っう要所。弥次さんも茶屋で団子を食いつつ、江の島に行くオジさんに道を教えている。

 弥次さんは橋を渡って藤沢宿に入ったところで、戻り駕籠と値引き交渉し、三百五十文を百五十文(七千円を三千円)にして駕籠に乗って〝馬入川の渡し〟へ向かった。


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