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江戸燃ゆる内藤といふ唐辛子 [花と昆虫]

naiyotougarasi2_1.jpg 今年は暑さのせいか、早々と唐辛子を収穫した。と言ってもベランダのプランター栽培。新宿の江戸野菜〝内藤唐辛子〟と伊豆大島〝アオト(靑唐辛子)〟。

 唐辛子に小さな白い花が咲く頃に、アブラムシに悩まされた。有機系駆除剤を噴霧したが埒が明かない。ひとボトルを使い切って、ネット検索すると「牛乳」が効くとあった。試みに薄めた牛乳を口に含んでプゥ~ッと吹く。するってぇ~と、なんということか、あれだけしつこかったアブラムシがピタッと姿を消した。これは覚えておいた方がいい。

 もうひとつ大事なこと。前回のアオトは肥料、水やりと手塩にかけて大量のアオトを収穫したが、あの独特の辛さがなかった。島の方に伺ったら「そりゃ、手のかけ過ぎだよ。放っておく、いや苛めた方が辛くなるんだ」。今年はその鉄則を守った。収穫量は少なかったがアオト特有のツンッと天に抜けるような辛さが出た。

 一方、内藤唐辛子は真っ赤になったら収穫して乾燥させると辛さが増す。江戸時代は内藤新宿一帯が唐辛子の赤で真っ赤に染まったそうな。目下のブログは「狂歌」がらみゆえに、江戸狂歌の最初のメンバーのひとり、平秩東作(へづうとうさく)も、その赤い情景を知っていたような気がする。彼の家は現・明治通りと甲州街道が交差する辺りの間口八間の馬宿を改装した煙草屋だった。

 現・牛込北町に住んでいた大田南畝の処女作序文を平賀源内が記し、その橋渡し(世話)をしたのが平秩東作だった。幕府密令で蝦夷地調査、獄死した源内の遺体引き取り、狂歌師らのパトロン的存在だった土山宗次郎が松平定信「寛政の改革」からの逃亡を手伝って「急度叱」の罰。なんとも怪しく活躍した御仁だった。

 彼の墓は新宿・善慶寺。同寺周辺も晩夏になれば内藤唐辛子で赤く染まっていただろうか。彼の辞世狂歌は「南無阿弥陀仏と出でたる法名はこれや最後の屁づつ東作」とか。


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