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十返舎一九とは(1) [狂歌入東海道]

19e1_1.jpg 十返舎一九の関連書(評伝など)を探すが見つからず。松井今朝子の小説『そろそろ旅に』を読んだ。十返舎一九が『東海道中膝栗毛』を書き出すまでの物語。面白く一気読了。諸田玲子『きりきり舞い』も読んだ。これは一九晩年で、娘・舞が主人公。一九家に北斎の娘・お栄も居候しての諸騒動。これも面白かった(続編は期待を裏切られたが)。

 小説を読めば、やはり本当のところが知りたい。小学館刊・日本古典文学全集『東海道中膝栗毛』(校注・中村幸彦)の冒頭に十返舎一九の経歴解説があった。また国書刊行会刊・叢書江戸文庫『十返舎一九集』の校訂・棚橋正博に氏作成の略年表あり。これらを参考に、勝手解釈で一九像を探ってみた。

 中村・文は「まず、その伝は今もって明らかではない」と書き出されていた。これで満足な評伝書がない理由を納得。氏は諸資料から「こうだろう」という推測で筆を進めていた。まず馬琴の他戯作者評は疑問噴出だがと断って、その文を引用している。

 「姓は重田、字は貞一、駿陽の産なり。幼名を市九と云。故に市を一に作り雅号とす。若冠の頃より或侯館に仕へて東都にあり。其後摂州大阪に移住して、志野流の香道に称(な)あり。十返舎之号、黄熱香は十返しを全ひて、ここにいづる。今子細あってみづから其道を禁ず。寛政六年復び東都に来りて~」。補足:黄熱香なる高級香木は十回繰り返して嗅いでも香が消えないの意で十返舎。

 生れは明和二年(1765)、武家の子。棚橋年表には駿府町奉行所の同心の子とあり。さて一九はどこでどう学んできたか。中村・文には「戯作者(大阪で浄瑠璃作家)として立つ前に、すでに書も画も素人としては巧みで、文才をも養われていた。永井荷風が『膝栗毛』の「初編及二編の序文を見るに一九は文才あり」と日記に評した通りである」と記していた。

 そこで荷風好き小生は『断腸亭日乗/昭和七年七月十九日』の日記をひも解いた。「曝書の傍一九の膝栗毛を読む。初編の序文を見るに一九は文才あり。啻(ただ)に滑稽に妙なるのみにあらざる事を知りぬ。余の始めて膝栗毛をよみたりしは十六七歳の頃小田原なる足利病院に病を養ひ居たりし比なり」。

 時代を戻そう。〝或侯館〟は小田切土佐守らしい。一九は彼に江戸で仕え、大坂奉行になっても仕えていた。小田切侯の経歴は天明三年(1783)に駿河町奉行、寛政三年(1791)暮に江戸町奉行。翌年に大阪へ出立。一九は駿河町奉行当初に何らかの縁が出来て仕えていたらしい。

 ここからフィクションの余地、面白さが生まれる。諸田玲子『きりきり舞い』では、なんと!土佐守が駿府時代に娘〝こう〟と深間になって妊娠させた。土佐守は江戸に戻り、〝こう〟は駿府町奉行の同心・重田の妻にして一九を産んだ。一九は同心の子として成長したが、十一歳の時に母〝こう〟病没。一九は元服の後に江戸の土佐守の家に引き取られた。

 一方、松井今朝子の小説では、同心の子・一九は十七歳で同心見習いを願って土佐守の前で得意の槍術を披露して気に入られ、同心ではなく家来になったとしている。経歴不確かも、想像逞しいフィクションも、一九らしくて愉しいじゃないか。カット絵は『戯作者六家撰』に国貞(後の三代目歌川豊国)が描いた晩年の十返舎一九像を、小生が簡易模写。細面〈馬面〉で若い時分は相当モテたらしい。(続く)


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