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十返舎一九とは(3) [狂歌入東海道]

jyodan1_1.jpg (2)の続き。一九は享和元年(1801)頃に再び離婚。〝しりつき(入婿)〟ではなくなったら、自ら食って行かなければならない。南総へ、箱根への旅記を含めた大乱作。享和二年に、なんと二十九冊も刊。その中に『浮世道中膝栗毛』初編あり。数打ちゃ当たるで、同作をもって一躍流行作家に躍り出た。

 また一九が副業抜きで食って行けたのは、誰もが指摘している通り自画、自版下、画工なども兼ね備えてのこと。(余談:小生は才能なしをカバーすべく一件の仕事で原稿、撮影、デザイン、印刷、さらには企画書とマルチ受注でフリーランスを生き抜いてきた)

 一九は他戯作者に比して学問肌ではなく、時同じく急増の(文字が読める人の急増、貸本ブーム)大衆読者層へマッチした通俗性(下品さ、読者サービス)で人気爆発。享和四年(文化元年)には筆が走り過ぎた『化物太平記』で手鎖五十日の刑。

 その刑が堪えたのだろう、文化二年(1805)には入婿ではなく妻(民)を娶った。同年刊の『滑稽(じょうだん)しつこなし』には、艶っぽいお民さん(袖に一九の熊手マークあり)が登場。一九が仲間内で酒宴中に初鰹が届けられ、お民さんが「なんぞ吸物を四五人前持ってきてくんな」と言っている。(画は喜多川月麿。国立国会図書館デジタルコレクション同著より転載)

 この書の内容は、生魚が食えぬ一九が辛子味噌に〝下し薬〟を仕込み、仲間らが雪隠通いをする顛末。また同著には仲間との江の島参詣シーンに「旅は弥次郎兵衛・喜多八でなければ面白くねぇ」という台詞を盛り込んでいる。一九は東海道の他にも伊勢、幡州(兵庫)、信州、上州へと旅を続けて書きまくった。『膝栗毛』をはじめの続編続きで〝合巻形式〟の長編スタイルも確立。

 お民さんは男女の児を産んだ(男児は早逝)後で亡くなり、一九は四十九歳の時に四度目の妻(おゑい)と結婚。おゑいさんは女児「舞」を我が子のように育て、「舞」は長じて藤間流のお師匠さんをしつつ父の面倒をみた。一九は旅と酒と乱作ゆえか、五十歳頃から眼が悪くなり、中風症状も出始めていた。

 文政五年(1822)、五十八歳で『膝栗毛』十二編刊。実に二十年余で完結なり。 天保二年(1831)、享年六十七歳で没。辞世は狂歌で「此の世をばどりやお暇(いとま)と線香の煙と共にはい左様なら」。

 川柳は北斎のバレ句(エロ川柳)などで幕末・明治を笑い倒して生き延びた。俳句は正岡子規らの刷新運動で生き残った。だが大田南畝を筆頭として一九も凝った「狂歌」は通俗化によって廃れていった。一九没の僅か三十七年後、北斎没の十九年が明治元年だ。江戸は徳川から天皇の時代へ。日本人は「大日本帝国憲法」一色に染められて行った。


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