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坂之下「すゞか山ふる双六はたび人の~」 [狂歌入東海道]

49sakanosite_1.jpg 第四十九作目は「坂之下・筆捨山之図」。狂歌は「すゞか山ふる双六はたび人のさきへさきへといそぐ駅路」。鈴・振る・駅路の繋がり。判読困難なくずし字は、旧字の場合が多い。「駅は驛」のくずし字。内容は、双六ならばひと振りで〝上がり〟になる宿場まで来て足が早くなる、だろう。

 絵は「坂之下」に入る手前の〝筆捨山〟の奇嶺を、旅人らが立ちどまって眺めている図。保永堂版も同じく「阪之下・筆捨嶺」。

 同嶺について、三重観光サイトはこう説明。「奇岩怪石の多い山で松、楓、つつじが繁茂。絵師・狩野法眼元信がこの山を描こうとしたが、山の姿の変化が激しくて描けずに筆を捨てたのでこの名がついたと言われている」。

basyousan.jog_1.jpg49sakanositeuta_1.jpg 奇岩の山を楽しんだら「坂之下宿へ。昔は鈴鹿山の坂下にあったが、水害に遭って現在の地に移ったとか。ここもまた鈴鹿峠を控えて、大名行列の宿泊が多く本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒。相当に賑わっていたらしい。

 しかし「関宿」と同じく、明治になると鈴鹿峠を嫌った「関西本線」が、また昭和の「新名神高速道路」が坂之下宿を避けたゆえに過疎化。今は民家数十軒のひっそりした山村の呈らしい。

 宿場を出れば、曲がりくねった急坂で近江と伊勢の境〝鈴鹿峠〟へ。西行法師「鈴鹿山浮き世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらむ」。親、妻、子を捨てて出家した頃の歌だろう。不安と寂しさが溢れている。そして芭蕉「ほっしんの初(はじめ)に越ゆる鈴鹿山」。

 おや、同じような歌と句だなぁと思った。『芭蕉七部集』をひもとけば「猿蓑」に収録で、西行の行脚に想いを寄せて作った句とあって納得です。なお「坂之下宿」の次「土山宿」は滋賀県甲賀市に入ってゆくが、芭蕉生誕地は山を南西側に越えた三重県伊賀市。

 絵は芭蕉のつもり。〝筆を捨て〟スマホのタッチペンで「写真」アプリの〝マークアップ(落書き)〟で描いてみた。


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