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水口「四つ五つふればあがると子供等が~」 [狂歌入東海道]

51minakuti_1.jpg 第五十一作目は「水口(みなくち)」。狂歌は「四つ五つふればあがると子供等はみな口々にいひてあそべり」。双六のサイコロ次第では一気に〝上がり〟になる。三条大橋まであと僅か。東海道を旅する人、二十年に亘って『東海道中膝栗毛』を書き続けた十返舎一九にとって、多数「東海道五十三次」を描いてきた広重にとっても〝あと僅かでゴール〟です。

 土山宿から野洲川沿いの道を二里二十九町(11.5㎞)で水口宿。この絵は、相も変わらぬ旅籠の客引きの様子。ここは水口城の城下町。本陣と脇本陣が各一軒。旅籠が四十一軒。宿場は三筋で構成されている。

 創業・元禄十三年(1700)の老舗旅籠・桝又旅館が、十数年前まで営業していたらしい。そこから伺えるように、古い建物が遺る雰囲気ある街並み。保永堂版「水口」は〝名物干瓢〟。街道沿いで女らが干瓢を干している図。

51minakutiuta3_1.jpggoyutomeonna.jpg 宿場を出ると「横田の渡し」。この渡し場跡に巨大な(9.7㍍)の大常夜灯(文政五年・1842年建造)が遺っている。この横田で、芭蕉は同郷の服部土芳と二十年振りに会った。十歳の少年が今は二十九歳で、芭蕉は四十二歳。二人は水口宿で呑み交わす。「命二つの中に生きたる桜哉」。互いに命があって、この歳まで生きて再会できた。二人の間には今は盛りとばかり桜のいきいきと咲いている。芭蕉は水口に四、五日滞在して発句、歌仙を催した。

 現在の水口宿は近江鉄道が走ってい、最寄り駅は「水口石橋」駅。宿場を出て、さらに進めが昔は川を渡っていたが、今は明治十七年築造の〝天井川(隧道)〟下の「大沙川トンネル」(数日前のブログでiPhoneで描いた)や「由良谷トンネル」をくぐって石部宿へ。これは川の堆積物が積もって川底が上ってのことらしい。江戸時代の旅人らは、川の下に道が出来るなぁ~んてことは、夢にも思はなかっただろう。

 蛇足:保永堂版「御油(旅人留女」の二組の絡みが、この「水口宿」の絵にも描かれている。引き込まれて草鞋を抜いている男のポーズもまったく同じ。広重はこうした〝流用多々〟で東海道ものを幾作も描いたとわかる。


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