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大津「君が代のたからを積みて門出の~」 [狂歌入東海道]

54ohtu_1.jpg 第五十四作目は「大津」。狂歌は「君が代のたからを積みて門出(かどいで)の仕合(しあわせ)よしといさむうしかひ」。漢字に〝読み〟を入れたが、これで正しいだろうか。「仕合よし」は古語辞典で〝事の次第よし・なりゆきよし〟。同時に荷馬の腹当てに染め抜いた語(丸に〝仕合〟や〝吉〟など)。掛詞だな。広重の絵をよく探せば、荷馬に腹当てにそれら文字入りの絵もあった。

 草津宿から「瀬田の唐橋」を渡ると、右に琵琶湖の広がりが見える。湖沿いに歩くと膳所城跡の先が「矢橋」からの船着き場。絵はここを描いたのだろう。大津宿は物流要所で本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠七十一軒。

 芭蕉は湖水東岸を見て「辛崎の松は花より朧にて」と詠んだ。松が朧に見える趣を「朧かな」と言い切らず、余韻を残すべく「朧にて」とした。広重は「近江八景」で〝唐崎の松の朧〟を描いている。

54ohtuuta_1.jpg 大津には芭蕉の墓、膳所・義仲寺がある。「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、西(故郷の伊賀、畿内、京)で過ごす事が多くなった。元禄七年に御堂筋「花屋仁左衛門」の離れで永眠。舟で伏見まで下って義仲寺に埋葬された。同寺〝無名庵〟が元禄二年頃からの拠点で、門人によって新築されていた。辞世は「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」。

 本陣は「礼の辻」を左折した辺り。その一画に「大津絵」を売る店あり。「東海道名所図会」に店の様子が描かれている。横井也有『鶉衣』の一文を思い出した。「鳥羽絵(漫画)の男は痩せてさびしく、大津絵の若衆は肥えて哀れなり」。大津絵は旅土産(民画)。今も五代目が三井寺参道で店を出しているらしい。

 芭蕉「大津絵の筆のはじめや何仏」。正月に名句が浮かばず、大津絵では年初めにどんな仏を描いているのだろう」と詠った。当時(元禄)の大津絵は阿弥陀、三尊仏、十三仏など仏画のみ。その粗雑な筆致が俳諧の可笑味と共通なるものありと感じていたそうな。(麻生磯次『芭蕉物語』参考)。

 宿場を出ると「走井茶屋」へ。保永堂版は「大津・走井茶屋」。店前の街道を牛馬の列が描かれてい、冒頭の狂歌「勇む牛飼い」がここで登場する。大津~京都間は、物資運搬の牛馬のために「車石」が敷かれていた。その絵の左に「名水・走井」も描かれている。名物は「名水(走井)餅」。ここで餅を食ったら、京は目前なり。


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