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江藤淳「漱石論」まとめ(漱石6) [永井荷風関連]

sousekisatu3_1.jpg 前回挿絵に漱石の立派な口髭を描いたが、生誕150年がらみで書店平積みの十川信介著『夏目漱石』(岩波新書)の腰巻には「僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである」なるコピーが躍っていた。立派な髭とは似合わぬ弱い男だったのか。

 同書でも彼の小説を「登場人物が多く、それぞれが極めて複雑な事情(漱石のような)を抱えてい、そうした人々(学友、同僚、家族ら)との交流を通して描かれる内容が多く」、「(彼らとの会話から)善悪、正邪を個々の人間の心に認め、その変化を分析してゆく」。ゆえに〝倫理の漱石〟と言われると書かれていた。

 江藤淳『漱石論』の続きに入る前に、明治43年「大逆事件」で、荷風さんは前述通り「文学者ながら何も出来ないことを恥じて、江戸戯作者に身を下げる」と決意したが、漱石の反応も気になる。

 江藤著に、それは『それから』(明治42年秋)に記されているとあったので、同作を拾い読み。代助が旧友で新聞記者・平岡の妻・三千代に愛を告白し、それを平岡にも直接話すべきと職場へ訪ねる場面。

 本題を切り出せない代助に、平岡が昨今の社会情勢を語り出す。「社会主義者・幸徳秋水に新宿警察署の巡査が連日張り付いていて~」。だが代助は〝世間話をする気もなく〟心は三千代のことばかりも肝心の話を出来ずに終わっている。

 漱石は、なぜここに平岡の弁で「幸徳秋水の話」を挿入したのだろう。翌年「大逆事件」は(冤罪を含めて)多数が処刑された。朝日新聞でも連日の報道があったろうに、同社職業作家・漱石の反応はどうだったのか。

 江藤淳は、漱石最後の小説『道草』と病死中断の『明暗』が、「数少ない真の近代小説の一つとして輝いている」と評価するも、その説得力なし。24歳の江藤淳は理屈っぽいゆえ、ここは11年後に少しはわかり易く説明できるようになっただろう35歳時の「漱石生誕百年記念講演」を読んでみた。以下要約です。

 明治の近代化は、東西文化を融合して日本文化を核心とする新文明が出来るはずだったが、そうは問屋が卸さなかった。自我を抑制する倫理が崩壊し、自我が渦巻いた。その貧しさに漱石は気が付いた。そういう人間存在の認識は後の実存主義に至るが~

 「僕は神だ」と自我の主張の究極は狂気に至る。そういう近代の中で生きつつ、漱石は『道草』と『明暗』を書いた。漱石はここで「悲惨な近代だが、それでも人間を生かしているのは、人としての救いがあるからではないか」と認識。主人公は生まれたばかりの赤ん坊に震え、細君が赤ん坊におっぱいを呑ませる姿にうっとりする。〝生命の力〟という人間の最奥にあるやさしさを認識する。※半藤一利著には「お産婆さんが間に合わず、漱石が自らの手で三女を取り上げた」の記述あり。

 『明暗』には、評論家を目指すも芽の出ぬ「小林」が登場する。江藤淳は彼に社会主義思想と、社会的劣敗者であるインテリ像と、ドストエフスキーに代表されるロシア文学の三つの要素を盛り込んだと指摘。漱石は小林の〝ドストエフスキー的涙〟に、自らの知的な創作態度に対する一つの自己反省のようなものを許容し、完全な人間的な連帯意識を導入し、新しい人間を創り出そうとしていた。「人はマイナスを引き受けた上で生きて行かなければならない」と身をもって示してくれた作家ではないか。

 以上が江藤淳の漱石論の結論らしい。江藤淳の漱石関連書は膨大ゆえ、機会があれば追加・訂正するとして、まずはここで止める。挿絵は千円札の漱石。(続く)


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