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江藤淳の「漱石論」(漱石5) [永井荷風関連]

higesouseki2_1.jpg 江藤淳『夏目漱石』は端から鋭い。「個性的な作家が多くの崇拝者を持つ場合、その弟子友人らによって神話化され、彼らが死に絶えると雲散霧消する。神話が溶け出せば漱石の中心的な主題は、一人の女を争う二人の男。作家の姿は著しく平俗化する」

 ホラッ、あたしの言った通りだ。この先どう展開するや。江藤は生田長江(「ニーチェ全集」翻訳など)の『夏目漱石氏を論ず』より「(漱石は)如何なる事をする人ではなく、如何なる事をしない人。面目を施すより体面が傷つかぬ事に重きをおく人。馬鹿にされると云う事が恐ろしく嫌ひな人」を紹介。まぁ、どうしようもない人物だ。

 次に正宗白鳥による評を挙げる。「その長編小説には感動せず。読みながら退屈した。ただ文章のうまい通俗作家」。続いて「漱石に敬意を払ったりするのは知識階級の通俗読者」。これらが当時の漱石観だったと記す。漱石がつまらなくて読み通せないのは、小生だけのことではなかったと知ってホッとした。
 
 江藤淳はここから少し救い上げる。「明治の官費留学生らは〝国家への貢献〟が前提ゆえ、自己抑制の倫理が課せられていた」。富国強兵、殖産興業、そして文学者には「英語研究」か?

 それに比して大正・昭和の作家らは、自己を無制限に肯定、拡大。性的欲望も肯定した挙句に〝だらしなさ〟全開。漱石とその後の作家らとは、立場がまったく違うと弁護。「(国家貢献の身ゆえ)漱石は自身の強烈・巨大な自我の叫びを、誰よりも痛切に感じ、それを抑制すべく格闘した」(※引用は原文ママではなく、小生流にわかり易く要約・変更です)。
 
 「文明開化」と「戦勝(日清・日露戦)」によって、日本人は地に足付かぬ浮かれよう。江戸時代から培われた精神面を忘れて一気に貧しく、歪んだ。国内のみならず海外でも醜態を晒す日本人。江藤淳はここで荷風さんを登場させた。

 「荷風は『あめりか物語』『ふらんす物語』に出てくる戯画化された西洋かぶれの人々を見て、痛手を受けた。同じような痛手を感じたのは二葉亭、鴎外、漱石。そのなかで最も不器用、疑似西洋人を装うなど空々しくて出来なかったのが漱石で、彼は致命的な痛手を受けていた」。結果的に彼らは作家になる前に、まず文明批評家にならざるをえなかった、と記す。

 「漱石の文学は、稀にみる鋭さで日本を捉えたことによって、日本近代文学のなかで輝いた」。江藤淳はここで初めて漱石評価の弁。荷風さんより12歳年長の漱石は、子供時分より漢籍に親しんだ上で、英文学の真髄を学び、世界に匹敵せんとする使命を抱けば、精神衰弱になるのも当然、と説明する。
 
 だが帰国後の長編小説は、中村真一郎が指摘するように「登場人物に性格がなく、構成がなく、主題の発展もない」にもかかわらず、彼は国民作家になった。国民作家=底の浅いものを喜んで読む底の浅い日本人受けの作家。中学生から老年までの読者を得てベストセラーの職業作家として成功した。
 
 「大学年俸八百円。子供が多く、家賃も高くて暮らせない」が一気に解決。なぁ~んだ、それだけのことかとガッカリした。前述の「日本近代文学のなかで輝いている」の内容・価値とは? 小難しく書かれた『漱石論』の先をもう少し先まで読み進まなければいけないらしい。(続く)
 
 挿絵は『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を書いた千駄木時代(明治36~39年)の漱石。まぁ、森鴎外なみの偉そうな髭です。
 
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