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江藤淳の漱石・荷風(漱石4) [永井荷風関連]

etojyun2_1.jpg 漱石と荷風さんの両者スタンスが大きく異なるゆえに、両者に取り組む方は僅少。そのなかの代表格が江藤淳だろう。

 漱石が「牛込馬場下横丁(現・喜久井町)」から「早稲田南町」へ。荷風さんは「大久保余丁町」。江藤淳は大久保百人町生まれ。百人町の実家は、昔の多くの家がそうだったようにツツジが咲き誇っていたそうな。

 江藤淳は「明治国家を理想とする保守評論家」らしい。比して荷風さんも半藤一利氏も薩長嫌い。小生も敬遠したい江藤氏だが、我家と同じ犬種「アメリカンコッカースパニエル」に耽溺の記『妻と私と三匹の犬たち』(自殺3ヵ月後に刊)を読んだ。我家のコッカーの名は「バーキィ」で、江藤家コッカーは「ダ―キィ」だった。

 同書を読み、少しだけ彼に親しみを感じたが、同書にこんな記述あり。プリンストン大学東洋学科で日本文学史を2年間教えて帰国の際「靖国神社の傍に住みたいという私の気持ちを英霊が嘉(よみ)したまわぬ(=よしとほめぬ)はずはないと思って」靖国神社近くに住むことを望んだ。(帰国時は昭和39年。A戦犯合祀が世間に知れたのは昭和54年)

 氏の保守志向はいつからだろう。夫妻は夢を叶えて靖国神社徒歩圏内の〝左内坂〟上のマンション購入で、愛犬と靖国神社へ参拝することに相成った。ここでまたエッと驚いた。小生が会社を立ち上げたのが〝左内坂〟上のマンション。同じ建物だったのかしら。

 話を戻す。江藤淳は23歳で『夏目漱石』を発表し、一躍新鋭批評家として脚光を浴びた。そして荷風さんが亡くなった時に「中央公論」に『永井荷風論』(昭和34年、著者27歳)を発表。さらに昭和60年の「三田文学」に10年間・31回連載で書いたのを改題『荷風散策~紅茶のあとさき』として平成8年刊。

 彼は若い時分から珍しい「夏目漱石・永井荷風」読み。『荷風散策』冒頭にこう記していた。「漱石を除けば、私が何度も繰り返して読んできたのは、谷崎でも志賀直哉でも川端でもなく、荷風散人の、それの小説である」。

 「あとがき」では、「荷風散策を書きはじめたとき五十二歳だった私は、完結したときには六十二歳。(略)私は荷風論や荷風伝を試みようというような大それた野心があったわけでは毛頭ない。ただ私は、愛惜してやまない荷風散人の小説と随筆と日記の世界を日和下駄をはいて東京市中を散策した散人の顰(ひそ)みに倣い、心の赴くままに散歩してみたいと願ったに過ぎない」

 江藤淳は荷風さん主宰「三田文学」の後輩。同著刊3年後に自らを「形骸」として自殺した。失礼ながら同著は引用8割程で内容も〝形骸〟っぽい。

 荷風さんが亡くなった時のことは多くの方が書いているが、江藤淳が亡くなった様子は『妻と私と三匹の犬たち』巻末に、府川紀子(江藤夫人の姉の子)が詳しく書いている。氏は、手首と首筋にためらい傷を残して風呂場で亡くなっていた。末期癌の妻を献身的に介護し、妻の告別式を終えた後に倒れた。急性前立腺炎にともなう敗血症。退院後に『妻と私』を書き上げた数ヶ月後に脳梗塞。リハビリしつつ『幼年時代』執筆中に遺書「江藤淳は〝形骸〟に過ぎず」と記して亡くなった。

 江藤淳は一卵性とさえ言われた似た者夫婦で超愛妻家。漱石は妻・鏡子が自身を理解せぬと罵倒していて、荷風さんは二人の女性と各数ヶ月の結婚生活後に離婚し、後は独身を貫いた。女性関係だけでもかくも異なる三人が、夏目漱石という糸でつながっていた。江藤淳の「漱石・荷風」とは~。(続く)


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