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荷風、漱石夫人を叱る(漱石3) [永井荷風関連]

kyoukosan3_1.jpg 明治43年末、荷風さんは「大逆事件」(幸徳秋水、大石誠之助、菅野スガら12名処刑、獄死5名他)で捕えられて裁判所へ向かう囚人馬車を見た。文学者ながら何もできないことを恥じて、彼は江戸戯作者に身を下げると決意。江戸文化への傾倒を深めてゆく。

 慶応義塾教授4年目の大正2年(1913)、父死去(父は明治4年に米国留学。帰国後は文部省出仕の有能官吏)。自由になった荷風さんは、隠棲趣味が高じて大正5年(1916)に慶応教授、「三田文学」編集を辞した。同年12月9日、漱石49歳病没。

 それから11年後の昭和2年(1927)9月22日「断腸亭日乗」に、初めての漱石関連言及あり。他人の目に触れぬ日記ゆえ、遠慮ない怒りを吐いていた。

 それは漱石死の十余年後の「改造」に、夏目未亡人の談話を女婿松岡某・筆記文が掲載。「漱石翁を追従狂とやら称する精神病の患者なりしといふ。また翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり。余この文をよみて不快の念に堪へざるものあり」。

 そして続ける。「その人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更これを公表するとは何たる心得違ひぞや。見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや。然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らずこれを訐(あば)きて差閊(さしつか)へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり。女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至ってはこれまた言語道断の至りなり」。

 荷風さん、花柳界の女性らとの付き合いが深いだけに、女性らの矜持・意気を心得ている。お付き合いある方の諸々を、軽々と他人に語るは愚の骨頂、御法度、最低なり。ここまで一気に記して、漱石とのお付き合いを述懐する。

 「(連載小説のことで)早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談笑したることありき。これ余の先生を見たりし始めにして、同時に最後にてありしなり」。そして「先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞとやかくと噂せらるることを甚しく厭はれたるが如し。然るに死後に及んでその夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし。ああ何らの大罪、何らの不貞ぞや」。そして「余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり」と余計な事まで記して〆ていた。

 この文から、荷風さんは漱石と仲違いしたわけではなく、先生と尊敬しつつも文学、社会的スタンス違いゆえに没交渉を貫いたと思われる。一方、漱石には金魚の糞のように多くの若き文士らが集っていた。

 ついでに記せば、この文を記した昭和2年の翌日に「尽きせぬ戯れのやりつづけも誰憚らぬこのかくれ家(壺中庵)」の、二十歳の「お歌」を訪ひ倶に浅草の観音堂を賽すと記していた。また別の日の「日乗」には「わたしの〝独身〟は畢竟わたくしが書斎に閉籠っている時の間だけで、一度外へ出れば、忽ち一変して多妻主義者なると申しても差閊なない」。

 なお夏目鏡子述『漱石の思い出』松岡譲筆録は文春文庫刊。さらに漱石夫妻の長女・筆子を母に持つ半藤末利子著『漱石の長襦袢』(文春文庫)、その夫・半藤一利による『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫刊、新田次郎文学賞)も出版されている。半藤一利著には、荷風さんは明治43年3月、漱石門下の小宮豊隆を慶応のドイツ文学科講師にという打診で、もう一度漱石山房を訪ねていたと記していた。

 鏡子夫人は〝悪妻〟との評があるも、描いているうちに精神不安定の漱石を「好し好し~」と抱く大きな優しさもあったような気がしてきた。そうでなきゃ、あんた、30歳~43歳の間に七人の子作りが出来るワケもない。これ「倫理に勝る〝日常生活の勝利〟」。漱石さん、時には鏡子さんの授乳風景をうっとり見つめ、さらには自分もその乳房を含んだかもしれない。江藤淳は、漱石晩年の生・性の肯定についても言及しているような。半藤先生の漱石・荷風は後にし、その江藤淳の漱石・荷風を探ってみることにする。(続く)


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