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漱石と荷風さんの関係(漱石2) [永井荷風関連]

29saikafu1.jpg このシリーズは誤解なきよう、小生の無知・偏り・隠居の暇潰しと断っておかなければいけません。まず小生の若き読書体験の告白から。姉が購読の「世界文学全集」(古典)を読み、次に現代作家による「世界全集」。ここからドストエフスキーやヘンリー・ミラーなど好きな作家の全集を読んだ。翻訳小説ばかりではなく、日本の小説もと手を出せば、あの私小説の〝だらしなさ〟に辟易した。

 日本の小説に好きな作家が探せずに諦めていた処に、唯一荷風さんに惹かれた。エッセー風文体よし、その助平さ加減もよし。私小説の〝だらしない性〟とは違って陋巷、落魄、隠棲など〝やつし〟なる姿勢にピンと筋が通っている。彼が身を投じるのも江戸から続く花柳界、紅燈の女性らというのもいい。そこには失われゆく江戸情緒・文化への想い、プロの女らの矜持あり。文明開化や戦勝に浮かれて地に足がつかぬ輩らへの鋭く厳しい眼差しもあった。「いき(粋、意気。〝すい〟ではない)」なんだよ。

 日本の他の作家らとはずいぶんと違うぞと思った。早稲田の古本街で「荷風全集」を購い、古本市でも荷風関連書があれば概ね入手した。まぁ、かく偏り無学な爺さんの漱石と荷風遊び。まずは東京朝日新聞の荷風『冷笑』連載前後の夏目漱石の小説はどうだったか。朝日新聞のプロ作家になった漱石の最初の連載が『虞美人草』。次に『三四郎』『それから』『門』の三部昨。

 『三四郎』は田舎の高校を出て東京の大学に入った三四郎が、周囲の人々に影響されつつ、同郷の野々宮の相手・美彌子に惹かれる話。『それから』は三四郎ならぬ代助が、優雅な独身生活を送ってい、友人・平岡と三千代を結び付けたのはいいが、後で三千代に愛を告白。『門』の主人公は親友の妻を奪って結婚。罪の意識に禅寺へ~とか(ちゃんと読んでいない)。

 なぁ~んだ、全部〝三角関係〟じゃないか。それで漱石の同作執筆時は41~43歳。精神衰弱や胃潰瘍に痔を患いつつ、なんと二年に一人のペースで子を設けて五女二男の子沢山。そんなビッグダディが三角関係に悶々としている。限りなく〝野暮〟なぁんだぁ。こりゃ。やはり読む気にしねぇ。

 一方『冷笑』を書いた荷風は30歳。またも発禁本の類かと思いきや、自身の分身らしき幾人をも登場させて、明治の文明批評や江戸文化、深川礼讃などを存分に語らせていた。〝冷笑〟とは、当時の日本人の浅薄さに向けられたタイトル。同連載で初めて荷風を知った方々は〝文明批評家〟と思ったとか。

 だが荷風ファンには同小説の主人公・吉野紅雨(よしのこうう)の名が、荷風さんの二の腕内側の刺青「こう命」の、新橋芸妓の富松(吉野こう)の洒落で、そんな深間にあるも同じく新橋芸者の八重次とも〝交情蜜の如し〟と嘯いていることも知っている。漱石だって『坊ちゃん』では〝おれ〟に「人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない」と啖呵をきらせていたが、いつから小難しくなったのだろう。

 荷風さん『冷笑』の真面目な文明批評が功を奏したか、連載後に上田敏・森鴎外の推薦で慶応義塾教授に就任。「三田文学」を主宰・編集。放蕩息子が教授になって、両親が喜んだこといかばかりか。

 挿絵は明治41年、帰国直後の29歳の荷風さん。珍しい口髭写真。荷風と云えば浅草の裸の踊り子らに囲まれた助平爺さん風の写真が有名も、若き日の荷風はこんなに好い男。この時代にこの風貌〝女が放っちゃおかない〟。


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