SSブログ

荷風好きに漱石は響かず(漱石1) [永井荷風関連]

souseki1.jpg 小生、永井荷風好き。荷風さんが好きだった江戸狂歌の代表、大田南畝も好きになったほど。荷風は小石川・金剛坂生まれだが、23歳より父が構えた新宿・余丁町〝来青閣〟で暮した。我家より歩いて行ける地。大田南畝の生誕地は牛込中徒歩町(現・中町)。

 そして我が家の窓から見える戸山公園の向こうが「夏目坂」。夏目漱石の生誕地。さらに東へ歩けば早稲田南町「漱石山房(終焉地)」。今年は「漱石生誕150年」とか。新宿区が講演やシンポジウム、記念館整備などで盛り上げている。

 小生恥ずかしながら告白すれば、教科書にも載る国民作家で千円札の顔にもなった夏目漱石の小説を一編も読み切ったことがない。どうやら荷風好きには〝漱石は響かない〟らしいのだ。

 漱石は江戸の最後、慶応3年(1867)生まれで、荷風さんより12歳上。帝国大学文科英文科から大学院へ。そして松山中学、熊本の高校で教鞭。鏡子と結婚。文部省より英国留学を命じられロンドンへ。神経衰弱で帰国。

 一方、荷風さんは明治12年(1879)生まれ。第一高等学校入試失敗。落語家の弟子、歌舞伎座作者見習いなどしつつ娼妓主人公などの小説群を発表。「親の顔に泥を塗る」と危惧した父が、24歳の荷風をアメリカへ旅立せた。ニューヨークで娼婦イディスとの耽溺生活を経て念願のパリへ。明治41年の帰国と同時に『あめりか物語』『深川の唄』『ふらんす物語』などを次々に発表。

 夏目漱石が教員を辞めて東京朝日新聞の職業作家になったのが明治40年。『虞美人草』(127回連載)発表後、翌41年に『三四郎』連載、明治42年にその二部作目『それから』連載、次が泉鏡花『白鷺』連載。その次に志賀直哉の予定も、彼の筆が止まって、急きょ永井荷風へ依頼。

 漱石の求めを森田草平(塩原で平塚らいていと心中未遂事件)が余丁町の荷風宅を訪ね、荷風さん快諾。漱石から挨拶状が届いた。「拝啓。御名前は度々の御著作及西村などより承り居り候處未だ拝顔の機を得ず遺憾の至に御座候。次今回は森田草平を通して御無理御願申上候處早速御引受被下深謝の至に不堪候。只今逗子地方にて御執筆のよし承知致候。御完結の日を待ち拝顔の栄を楽み居候。右不取敢御挨拶迄早々。斯如御座候以上。永井荷風様 金之助」。

 それは荷風さん帰国の翌年末。42年(1909)12月13日より『冷笑』連載(43年2月28日まで78回)。掲載終了後に上田敏・森鴎外の推薦で慶応義塾大学文科の教授に就任。「三田文学」を主宰・編集。

 漱石と荷風さん、ご近所ながら会ったのは掲載決定の挨拶のみで、以後一切交流なし。互いに文学スタンスの違いを認識していたのだろう。両者の溝は深く、荷風愛読の小生が漱石小説を読めぬのも、その溝の深さゆえだろうか。

 「漱石生誕150年」の今年はのんびりと、荷風さんがらみで漱石をお勉強してみようかしらと思った。荷風文献は全集、関連書多数を蔵書するも、漱石関連書は新潮日本文学「夏目漱石集」のみ。参考資料は出来るだけその都度記す。この挿絵はWindows「ペイント」で描いた。(続く)


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。