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半藤氏〝漱石山脈〟を語る(漱石8) [永井荷風関連]

bannenkafu2_1.jpg 前回の続き。半藤氏は『永井荷風の昭和』で、荷風さんが漱石を尊敬していたのは間違いなしと、荷風さんの記述を紹介。「硯友社文学の後を受けて興った凡ての流派の文学はもっぱら森、夏目両先生の感化を蒙って現れたもの。わたくしは坪内逍遥、森鴎外、尾崎行雄、幸田露伴、二葉亭四迷、夏目漱石の六家を挙げて現代の文学の代表するものとなしている」

 大正8年3月の「日乗」に「築地に蟄居してより筆意の如くならず。無聊甚し。此日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及び故人漱石翁の書簡を貼りて娯しむ」。まぁ、荷風さんはこの枕屏風の蔭で誰と戯れたか。

 そして荷風好きにはうれしい半藤氏の指摘は、晩年の「日乗」が例えば「金。夜来雨。〝在家第三日〟」のような短文が延々と続くが、これは森鴎外の最晩年の日記と同じ。耄碌しての短文ではなく、そこにも荷風さんの姿勢があったと指摘。

 また『荷風さんの戦後』の「あとがき」では「石川淳は敬意を込めて荷風さんと魂の交流をしていたはずなのに、死後はその生き方も文業も全否定。余りに憤慨したので荷風さんは戦後も戦前と負けないくらい見事に「孤独」を屁とも思わず、反逆的な生き方をしたぞ、と荷風さんへのわが横恋慕で書きつのった」と記していた。

 ここは主テーマが漱石ゆえ、漱石話題に戻る。「漱石は亡くなってから著作が大売れに売れ出した不幸?な作家」として、大正3年版(死去2年前)の「紳士録」から、漱石の税金67円で、そこから推測する大正2年の年収は2396円。当時の朝日の月給200円ゆえ、プラス月給分しか稼いでいなかった。漱石が絶えず懐具合を気にし、夫人が楽でない家計をやりくりしていたのも事実だろうと推測。

 しかも漱石山房には門下生が集って〝漱石山脈〟が形成されていた。松根東洋城、寺田寅彦、野村伝四、野村真綱、中村芳太郎、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、野上豊一郎、野上弥生子、阿部能成、林原耕三、阿部次郎、内田百、中勘助、和辻哲郎、江口渙、岩波茂雄、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲など。

 半藤氏は、漱石は「女たらし」ならぬ「人たらし」で万人の心を素直に惹き込む人間的魅力をいっぱい備えた人物ゆえと記し、和辻哲郎の「漱石はその遺した全著作より大きい人物であった」を、唐木順三の「酔興(ママ)ではできかねる。漱石は真底からの教育者」を紹介。

 〝漱石山脈〟が集ったのは「木曜会」。実は荷風さんが二十歳の頃に通った巌谷小波の門下生の会が「木曜会」。半藤氏は知っていながら、それは記していない。そんなことはどうでもよく、漱石には小説だけでは伺い知れぬ世界、魅力があったような気がしてきた。絵は最晩年の荷風さん。(続く)


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