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半藤一利の漱石〝則天去私〟(荷風9) [永井荷風関連]

handohige2_1.jpg 半藤一利『漱石先生ぞな、もし』の「ある日の漱石山房」に興味深い記述あり。漱石の最晩年に芥川龍之介、久米正雄、大学生の会話を松岡譲が記録。それを以下に要約。

 「頭の中で死を克服できても、いざとなれば嫌だ。それは人間の本能の力だろう。そこを自在にコントロールするには修業がいて、(習得すれば)人生における一番高い態度になろう。自分ではそういう境地を〝則天去私〟と呼んでいる。自分の小我を去って、大きな普遍的な大我の命ずるままに自分をまかせる。偉そうな主張、理想、主義は結局ちっぽけなもの。比して普通に思われるものでも、それなりの存在がある。今度の『明暗』はそういう態度で書いている。近いうちに、そういう態度でもって新たな文学論を大学で講じてみたい」

 漱石はその直後に病状悪化。49歳で亡くなった。何を今さら〝普通〟に注目か。漱石先生は〝偉い〟から、普通の人が普通に気付くものにやっと気が付いたと云ったら、余りだろうか。

 同書の最期は、漱石と荷風の〝万歳論〟。荷風の〝戯作者宣言〟が記された『花火』執筆の大正8年、欧州戦争講和締結祝賀で街は提灯行列と万歳の声。荷風さんは「新しい形式の祭りには、しばしば政治的策略が潜んでいる」と喝破。天皇制国家の宣伝を祝祭行事に結びつける政治を、日本にいながら〝日本の亡命者・荷風〟は、そこを果敢に突いていたと記す。

 明治22年の憲法発布時も国民が国家に対して〝万歳〟を叫んでいた。半藤氏はここで〝万歳の歴史〟を探る。漱石もまた天皇陛下万歳、日本海軍万歳、日本陸軍万歳、大日本帝国万歳を叫ばなかった。提灯行列にも加わらなかった、と結んでいた。

 同書でもう一つ注目は、荷風さんの最期。部屋には森鴎外全集、幸田露伴全集、そして何冊かの日本の本以外はフランス装丁の洋書(サルトルの『壁』もあったらしい)がびっしりと並んでい、亡くなった日の机の上には眼鏡と並んで開かれていたのは洋書だったと記憶すると。荷風さん、亡くなる直前まで自身の姿勢・世界を貫いていたと結んでいた。

 さて、本題の漱石先生の死はどうだったのだろうか。おそらく多くの身内、門下生、医師らでごった返していたような気もするが~。そう、漱石のお墓は雑司ヶ谷墓地とか。同墓地の荷風さんのお墓は幾度も掃苔しているも、漱石のお墓もあるとは知らなかった。さっそく自転車を駆ってみよう。(続く) ★挿絵は半藤氏の顔に、荷風さんの丸眼鏡と漱石のヒゲを加えて描いてみた。


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