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漱石「野々宮」の家は?(漱石付録2) [大久保・戸山ヶ原伝説]

natumezaka_1.jpg 武田勝彦『漱石の東京』が図書館にあった。漱石の小説に登場の東京各地の蘊蓄。川本三郎の散歩本と同ジャンルかな。同書を手にしたのは10年程前に氏の『荷風の青春』(1975年刊)を読んだから。同書は荷風さん24歳からの滞米・滞仏4年間の足跡を、実際に現地を訪ねて実像に迫った労作。氏もまた漱石・荷風の両書読み手なのだろう。

 『漱石の東京』は、自転車散歩好き小生にはお馴染の地がほとんどだが、今回は小生在住の「大久保」に注目した。まず〝三四郎〟が野々宮の移転先、大久保の家を訪ねて留守番をする場面。淋しい秋の宵の口に、大久保駅近くの轢死事件に遭遇する。

 さて、野々宮の家はどこだろう。氏は三四郎が歩いた道筋と轢死現場から推測して「現・百人町2丁目26番地の一画」と推測。その参考文献に東大名誉教授・大内力『百人町界隈』、東京外語大名誉教授・徳永康元『大久保の七十年』、千葉大名誉教授・清水馨八郎の昔語りを挙げていた。

 ここから伺えるが、当時の大久保は学者、画家、文学者、社会主義者、外国の音楽家など多数が居て〝大久保文化村〟が形成されていた。(今はコリアンタウンぞな、もし) その「百人町2-26」は現住所ゆえ、地図を見ればすぐわかる。大久保駅から東中野方向へ線路沿いに歩いた右側辺り。

 だが野々宮は寺田寅彦モデルで、寺田は百人町に住んでいないから漱石のフィクション設定。漱石はこの辺をよく歩き回っていて、他作家らが戸山ヶ原で漱石と会ったことなどを書き残している。そして当時の大久保在住者らが記した地名は、当然ながら当時表示ゆえ、現在地を確認するのに苦労する。

 そこで大久保の住所表示変更と発展過程を知るために明治、大正、昭和初期・中期の地図が必要で、手元に年代別の幾枚かの地図コピーあり。例えば国木田独歩が「明治40年に西大久保133に転居」とあれば、明治44年の地図を見て、それが現・大久保通りの金龍寺の反対側の道路際とわかったりする。

 また大正1年の地図は国会図書館デジタルコレクション「東京市及び接続部地籍地図」の下巻「豊多摩郡」の「大久保村百人町」がパソコンで閲覧できる。そんな遊びで小生は渡欧前の藤田嗣治の新婚所帯の表示を発見したことがあった。今回も前述の野々宮の住所確認に当時の地図、資料を見ているってぇと、小生在住地辺りに夏目家や荷風さんの実弟が住んでいたことを発見?して、ちょっと驚いた。(続く)

 ★写真は夏目坂「夏目漱石誕生地の碑」。かかぁが「今夜は餃子」ってんで、早稲田の「餃子の王将」でテイクアウトと決めた。我家から箱根山の戸山公園を縦断して早稲田へ。途中の白梅に二羽の「メジロ」。小さな池に望遠レンズの方。なんと眼の前にカワセミがいた。かかぁが餃子購入中に道路向こう側を見れば、この生誕百年記念の碑あり。スマホフレームに「やよい軒・海鮮チゲ」が入るのもご時世かなです。帰路、鳥の囀りに見上げると今度は「エナガの群れ」がいた。今日は好い日だった。


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