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江戸っ子は椿嫌い?(漱石付録1) [永井荷風関連]

tubaki1_1.jpg 漱石シリーズで何冊かの本を読み、別テーマで気になる幾つかの記述に遭遇した。半藤一利『永井荷風の昭和』に、江戸っ子の氏が漱石や荷風さんの〝薩長嫌い〟を語る項で、こう書き出していた。

 「兵庫県加西市にある県フラワーセンターの職員滝口洋佑氏が、椿の花がなぜ嫌われるか、という研究成果をまとめたという新聞記事(神戸新聞一九九三年一月八日夕刊)を読んで大いに自得することがあった」

 伊豆大島にロッジを持つ小生には、読み捨てならぬ記述なり。島の観光目玉は椿。目下〝椿まつり〟開催中で、先日の朝刊にも一面広告出稿(たぶん都の補助金がらみで~)。半藤氏の同文は概ねこんな内容で続く。

 「〝武士の首がぽとりと落ちるようで縁起が悪い〟との俗説は、明治時代につくられ広まった。幕末から明治初めに薩長の侍に〝やられっぱなし〟の江戸っ子が、椿好きの薩長らが大手を振って歩くのに対する鬱憤晴らしで言い出し、それが広まって江戸っ子に椿が嫌われた」

 そして氏は夏目漱石『草枕』を引用。「余は深山椿を見る度にいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い」、「落ちてもかたまっている処、何となく毒々しい」等々。

 これを「椿=薩長人」に置き換えて読めば、精一杯の拍手を送りたくなってくる。漱石が『草枕』で椿をそう記したのも〝そうか・それでか〟と合点がいったと書いていた。

 漱石テーマで「椿嫌い論」に遭遇するとは思わなかった。引用のみではいかんゆえ、滝口某の記述を探したが見つからず。「薩長は椿好き」をネット調べすれば、萩市の市花は椿。椿なる地もあった。加えて東海汽船は藤田系企業で、創業の藤田伝三郎は長州藩・萩出身で奇兵隊に参加。のちに政商として活躍というおまけ付き。一方、椿は江戸時代に中国か台湾経由で薩摩に伝来。島津家には大輪「薩摩」なる品種あり。15代目島津貴久は特に椿好き~なる記述もあった。

 次に『草枕』を拾い読みした。内容は30歳の洋画家が、熊本山中の温泉宿へ旅し、美を模索をするもの。東洋美探求、俳句的小説とも評される。出戻りの美しく強気な女将「那美」、その従兄で満州戦線に召集された久一、那美の別れた男、大徹和尚らが登場。

 洋画家は「鏡が池」で対岸の椿を見て〝椿観〟を約千字ほど展開する。半藤氏の引用他に「あの赤は只の赤ではない。屠(ほふ)られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自ずから人の心を不快にするが如く一種異様な赤である」、「又一つ大きいのが血を塗った人魂の様に落ちる。又落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる」等々。まぁ、この千字を読めば、誰だって椿が不気味に思えてくる。

 物語は省略するが、画家は池に浮かぶ那美、その上に椿が幾輪も落ち、そこに〝憐み〟を浮かべた那美の表情をもって絵が完成すると合点したところで終わっている。かくも椿を嫌った漱石だが、こんな句も詠んでいる。「活けて見る光琳の画の椿哉」。ついでに芭蕉句「葉にそむく椿や花のよそ心」。同じく江戸時代の横井也有「墓地にはさくらも見えず椿かな」(そんなこたぁねぇ、染井墓地の桜のきれいなことよ)。明治になるとホトトギス派の水原秋桜子「咲くよりも落つる椿となりにけり」。小生が好きな荷風句には椿を詠った唯一の句「雀鳴くやまづしき門の藪椿」。

 さて、今年の大島の〝椿まつり〟観光集客はどうだろうか。江戸っ子の〝椿嫌い〟に加え、最近ではここらの公園では「チャドクガ発生がありますから椿には近づかないで下さい」なんて放送もある。椿だけでは集客が弱いと思ったか、大島町では1億9千万円を投じて高さ12㍍の「シン・ゴジラ像」建造を企てたが、この案が島民に洩れて〝無駄遣い〟と反対署名が集まって頓挫。マスコミを賑わせたばかりだ。

 小生の場合は「椿でもゴジラでもなく」静かでのんびりと時が止まったような大島が好き。そうだ、未だ描いたことのない椿を描いてみようか。最初は水彩で写実っぽく描いたが、つまらん絵になりそうだったので、久々にWindows「ペイント」で描いてみた。「只一眼見たが最期!見た人は彼女の魔力から金輪際、免るる事は出来ない」~そんな椿の花が描けただろうか、ふふっ。


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