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語られる「大島元町復興計画」 [週末大島暮し]

 「You Tube」にアップされていた吉阪隆正に関する膨大インタビュー集より、各氏(教授ら)が「大島計画」で語っていた要点を、発言者名を省略し、小生補足付きで以下に箇条書きでメモってみた。

それは元町大火翌日に始まった:1965年1月11日、伊豆大島元町の大火映像を見た吉阪隆正は、その晩に(復興案)スケッチを描き、翌日に早大産業技術専修学校(現・早大芸術学校)の生徒に託して大島の役場へ届けさせた。まだ火がくすぶり、消防車が走りまわっている最中の〝復興計画案〟に役所は腰を抜かした。そこから都・役場・住民と一緒の区画整理が始まった。

吉阪隆正と大島の出会い:昭和13年(1938)9月18日、日独伊三国同盟でヒットラーユーゲント(ナチスの少年組織)23名が来日し、日本の青少年と合流来島。吉阪正隆は官僚の息子で語学堪能ということで参加したらしい。その時の大島の印象が鮮烈で島に親しみを持っていたらしい。(ヒットラーユーゲント来島は「大島小史」や「懐かしの写真集」にも記録あり。当日の様子が詳細レポートされた『島の新聞』は小生の手元にもある)

復興の夢と勇気を語った吉阪:吉阪チームが島に着くと、波止場に町長らの黒塗りの車が待っているも、吉阪はお構いなしのいつものマイペースでスケッチを始めた。しようがないからスタッフが車に乗って役場(焼失しているから仮役場だろう)へ。吉阪はミカン箱かなにかの上に立って「さぁ、素晴らしい町を作って行こう」と演説して島民に夢と勇気を与え励ました。

水取り山計画:島は水が大事。三原山砂漠に石を古墳状に積んで穴を開け、そこに昼の空気が入って夜に冷えて水が出来る。砂漠に三葉虫のようなそんな石積みを幾つも作って池に水を貯める。そんな夢のようなアイデアにスタッフは呆れつつも、次第に図面引きに夢中になっていった。

世界初のボンネルフ完成:ボンネルフ(またはボンエルフ。オランダ語で「生活の庭」の意。車道を蛇行させてスピードを落とさせ、歩行者との共存を図った道路)は1972年にオランダの都市デルフトで始まった、とされるが、この復興計画(1966)でいち早く伊豆大島で誕生していた。世界初のボンネルフだったが、町長が変わって〝これからは車社会だから〟と真っ直ぐに直されてしまった。

日本初のワークショップ:復興へ向けて住民が多数参加の懇談会が大いに盛り上がった。上への批判を含めた闊達な議論で、今和次郎のような案が次々に出てきた。今でいう「ワークショップ」が伊豆大島で誕生した瞬間だった。

★「発見的方法」の確立:それは上から目線ではなく、島に蓄積されていた知恵、眠っていたもの、潜んでいたもの、見捨てられていたものを再発掘し、それらを現代的にどう再生して財産にしてゆくかという都市復興計画の考え方で、それはこの「元町復興計画」で確立されていった。それは今も早大の都市計画の伝統になっている。

市街地と沿岸地の計画:斜面が多い元町の地形を生かした町つくり。椿を取り入れた町つくりや、火山岩を利用したペイメント採用。そしてドラマ性を大事にした海岸計画が練られた。

吉谷神社への参道:海から吉谷神社への参道に、都電廃止で不要になった御影石を轢く案を提案。それは今も遺っていて、後年に当時の吉阪スタッフが島へ行った際に、老人会の方々が掃除をしていた光景をみて感動したそうな。(同時期に銀座辺りを走っていた都電が廃止されているから、それら石は銀座辺りの石かも)

 以上が「You Tube」で各氏が語っていた主な内容。ここで語られた昭和40年の元町復興計画の考え方は、少なくとも1億9千万円の建造費、かつ維持費も多額な巨大「シン・ゴジラ像」建造案よりも大切な〝町(島)おこし〟の考え方があるような気がする。(大久保と大島を結んだ建築4。5へ続く)


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