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吉阪隆正『乾燥~』で百人町再考 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yosizakatizu2_1.jpg 都立中央図書館で『吉阪隆正集』より第12巻『地域のデザイン』を読んだ後、5Fカフェテラスでランチ。窓の正面が東京タワー。右を見れば竹芝桟橋辺り。そこで「あっ」と思い出した。

 昨年5月の練馬区立美術館「横井弘三の世界展」を観て、彼が若き日(昭和3年)に大島スケッチ旅行をした際の〝画と紀行文〟の書『東京近海 島の写生紀行』が、この図書館にあるのを思い出した。同書の長閑な時代の大島を楽しませてもらって、さてと仕切り直し~

 吉阪隆正全集の、今度は第4巻『住居の形態』と『乾燥なめくじ~生ひ立ちの記』を借りた。第4巻に〝百人町の吉阪邸の成り立ちと変遷〟が収録。だが、その部分は『乾燥~』の再編集だった。同書によって吉阪隆正の新たな諸々を知った。その中から幾つかをメモする。

★百人町の吉阪邸/大正12年(1923)、ジュネーブでシャトー暮しをしていた吉阪一家が帰国。百人町仲通り北側の柴田雄次氏の地に建てられていた大内兵衛(父の五高時代の友人で、当時は東大教授)邸を譲り受けた。ドウダンツツジの垣根内敷地真ん中にイギリス風ボーウィンドー(弓型に張り出した出窓)のある応接室。縁の下が三尺以上も高い大谷石ピロティの上に建てられた二階建て。床下に石炭ボイラー、応接室にユンケル(貯炭式)ストーブ。スケッチを見れば豪邸なり。それで夏は軽井沢の別荘へ。彼は昭和17年の召集までをここで過ごした。

★兵役/住居についての卒論調べで北支満豪へ。召集を受けて北京から姫路(実家は代々の造り酒家)の連隊へ。幹部候補生隊から満州飛行機の監督官、そして習志野で中隊長教育。南鮮の光州で終戦。百人町の自宅はB29空襲で焼失していた。 

★バラックを建てる/昭和22年(1947)、跡地にバラックを建てる。住宅に困っていた友人らにも敷地を解放。(同書掲載のスケッチを幾つか簡易模写しておく)

★ル・コルビュジエ時代/戦後最初のフランス政府給費留学生となってコルビュジエのアトリエ勤務。住居は〝薩摩会館〟こと日本館学生寮。映画「パリの空の下セーヌは流れる」に折り畳み小径自転車(プジョーかルノー製だろう)で走り抜ける吉阪の姿が一瞬映っているとか。あたしは隠居してから折り畳み小径自転車にのっている。

★帰国後に自邸設計/~をするも各国へ飛び回ること多々。昭和36年(1961)4月から翌年10月までアルゼンチンのツクマン大学招聘教師。帰国すると吉阪邸には大学の研究生らが入り、南米の留学生夫妻が土足で生活。邸宅を大改造する。

★吉阪邸の位置/吉阪邸の南側に「三葉マンション」が建って、母らが入居とあった。同マンションは今もあるから、行けば吉阪邸があった場所がわかる。この一画は冒頭紹介『大久保の七十年』を記したのが徳永康元で、今も徳永家の表札の家が残っている。昭和初期の百人町の面影が残る貴重な路地になっている。昭和40年から数年、この地から若き建築家らが大島に幾度も渡っていたんだと思った。

★江藤淳の連れ込み宿/「三葉マンション」の前に今はないが「KBマンション」があって、吉阪家の子らが入居していたとか。同マンションは元・温泉マークの建物で、流行らなくてマンションに改造と記されていたと記されていた。そこで「アッ」と思った。実は江藤淳が昭和40年(大島元町大火の年)5月に〝母の思い出が唯一のこる跡地〟を訪ね、温泉マークの旅館が建設中で痴態を写す大鏡設置を見て「顔から血がひくのを感じて眼をそむけた」から「私に戻る〝故郷〟などなかった」と記していたが、それを最初に読んだ時は、この辺には連れ込みホテルなどなかったはずだが、と思っていたんだ。それが吉阪隆正の記述でこの辺りにもそんな宿があったと認識した。

★崇拝者のその後/江藤淳は「崇拝者が死に絶えると、その神話化は霧散霧消する」と書き出して「夏目漱石論」をものにした。吉阪隆正もまた多くの建築家が崇拝するカリスマ的存在。今後にも注目したい。

(〝大久保と大島を結んだ建築家・吉阪隆正〟1~5はカテゴリー「週末大島暮らし」に収録。この項6のみ「大久保・戸山ヶ原伝説」とした。完)


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