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松本清張(3)召集 [読書・言葉備忘録]

nitouhei1_1.jpg NHK「ファミリーヒストリー」ではないが、小生らの両親、祖父母らは戦争を、大災害を乗り越えてきた。艱難辛苦の人生。小生の父は通信兵だったらしいが、戦争中のことは語らなかった。

 松本清張『半生の記』には召集と兵隊時代も記されていた。次第に戦況厳しくなって在郷軍人会などによる教練が活発になる。昭和18年、34歳の清張さんに「教育召集」の赤紙。清張は満20歳に徴兵検査を受けて第二乙種補充兵。この時は兵営入り免除だが、今回の「教育召集」に出頭すれば年下ばかり。どうやら教練出席率の悪さで眼をつけられた。この時は3ヶ月で解放も、翌年に本格召集。衛生兵としてニューギニア補充と知って、死を覚悟する。

 小生、恥ずかしながらここで改めて「徴兵制」をお勉強。明治初期の竹橋事件兵士らの徴兵・待遇は知っていたが、ここでのポイントは明治22年(1889)の大改革。〝国民皆兵制〟になって、満17歳以上~満40歳までの男児は一部例外を除いて徴兵。甲種、乙種以上は合格。戦況悪化で丙(へい)種も徴兵。さらに昭和18年(1943)には学徒出陣(学生猶予がなくなり、主に20歳以上の文科系学生が徴兵)、熟練工や植民地人も徴兵された。

 徴兵制で年齢調べをしていたら「あらっ、清張と小生の父は同年齢じゃないか」と気付いた。ちなみに司馬遼太郎は清張より14歳下の大正12年(1923)生まれで、元気漲る徴兵ど真ん中世代。彼は戦車第一連隊第五中隊所属の第三小隊長だった。

 清張が配属されたニューギニア補充部隊は若者中心のなか、中年になりかけた33、34歳が3人。共に在郷軍人会の教練出席率が悪かった。さらに清張は、思わぬことに気付く。朝日新聞では小卒で出世も見込めぬ差別的待遇にあったが、「軍隊に入ると社会的な地位、学歴、貧富の格差なし世界」と気付く。新兵は皆な平等で〝奇妙な生き甲斐〟と、職場にはない「人間存在」を見出したと記している。

 清張らの先行隊の乗った船が途中で撃沈。輸送船がなくなってニューギニア行きが中止。彼らが駐屯する朝鮮の片田舎では、敗戦色濃くも長閑な日々。清張は直物図鑑を見て食用野草をスケッチして、食料難の前線兵士のための小冊子作りをしたとか。

 半藤一利『清張さんと司馬さん』に、清張さんが半藤さんにこう語ったと記されていた。「衛生兵は特殊な存在。怪我や病気になれば大事にしてもらいたいゆえ、余り殴られたりすることがなかった」(省略引用ゆえ、正確に読みたければ原書をどうぞ)

 また短編『任務』には「衛生兵のアダ名は〝ヨーチン〟だが、面と向かっては弱い声で〝衛生兵殿〟と呼んでくれた」。1年半ほどで敗戦を迎えて本土送還。いよいよ作家デビューへ向かう。(4へ続く)


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