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劉生2:白馬会から草土会へ [スケッチ・美術系]

ryusei17_1.jpg 当初は水彩風景画を描いていた劉生だが、17歳で赤坂・溜池「白馬会葵橋洋画研究所(黒田清隆が指導)」に入門(挿絵は当時の劉生。痩せていた)。同所で木村荘八と親友に。木村は東日本橋の牛鍋(すき焼き)「いろは第8支店」生まれ。木村の父は愛妾担当の支店を22まで拡大して子供は30人。(岸田、木村の父は共に傑物)

 藤田嗣治が黒田の指導を嫌ったのは有名だが、劉生も黒田の指導日は避けたそうな。それでも3年在籍で、19歳で黒田スタイルの2点で文展入選。その直後、明治44年(1911)からゴッホ、ゴーギャン、マチス、セザンヌなど後期印象派の影響を受けた絵に一変。特にゴッホに夢中。後期印象派を紹介の雑誌「白樺」同人に接近。6歳年上の武者小路実篤と親交。同誌に文章も発表。バーナード・リーチとの交友も始まった。

 大正元年(1912)、高村光太郎筆頭のヒュウザン会に出品。ゴッホ風自画像などで注目。同展に学習院・漢学教授の娘で鏑木清門下生だった小林蓁(しげる)さんが観に来て、それを機に二人は結婚。新婚所帯は妻の実家・西大久保457番の小林宅二階。

 新婚当時の劉生は、訪ね来る客を次々にモデルにして数時間で完成。「岸田の首狩り・千人斬り」と言われたとか。モデルがいなければ自画像の連作、新妻も描いた。次第に後期印象派から離れ、アルブレヒト・デューラーに近づいて写実を深める。

 神経質・癇癪持ちの劉生に、妻の実家の二階は住み難く、早々に代々木山谷117の一軒家へ移転。大正3年に長女・麗子誕生。同年、二科会結成も劉生は監査委員に推されるも辞退。

 大正4年、事実上の第1回草土社展を開催。あの有名作「道路と土手と塀(切通之写生)」はじめ一連の〝赤土の風景〟を描く。同年秋「草土社」を結成。メンバーは木村荘八、中川一政、椿貞雄、高須光治など。同会展観は大正11年まで全9回開催。草土社に集う若い画家らは、劉生を狂信的に崇め、彼もまた独裁。その結束力は凄かったらしい。

 しかし大正5年、25歳の時に肺結核と診断。療養目的で駒沢村へ移転。戸外写生は無理で静物画に取り組む。大正6年、より暖かい鵠沼の別荘を借りる。次第に健康回復で、同地での6年半が彼の最も充実した〝鵠沼時代〟になる。(続く。次回は西大久保、代々木の〝赤土〟巡り)

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