SSブログ

劉生3:「切通之写生」現場へ [スケッチ・美術系]

kioujinnjya_1.jpg 家に籠って連日読書では運動不足。自転車を駆った。岸田劉生関連書を読書中ゆえ、彼の旧居巡りと相成候。まずは劉生が新婚所帯を構えた妻の実家「西大久保457」小林宅へ。あらっ、ご近所だ。大正時代の地図を見れば、現・新宿職安通りから歌舞伎町方面へ曲がってすぐの鬼王神社隣辺り。

 今はスナックビルとラブホテル群の歓楽街で、当時の面影皆無ながら、104年前の大正始めに22歳の劉生が、ここで新婚生活と思えばなんだか身近な存在になってくる。

 職安通り沿い(鬼王神社へ曲がる手間)には、島崎藤村旧居碑あり。極貧生活のなかで『破戒』執筆中に栄養失調で三人の女児を亡くし、同通りの山手線寄り「長光寺」に葬られている。

 ここから新宿駅南口前の甲州街道を数分走って「西参道」(地図は間違えて〝北参道〟になっている)に入る。突き辺りが明治神宮で、右坂下が小田急線「参宮橋」。まずは「北参道」左側、代々木3丁目側を走って西大久保からの移転先「代々木山谷117」を探す。今は「山谷」地名はなく代々木3丁目だが「山谷幼稚園・山谷小学校」に地名が残ってい、この辺りが劉生夫妻の移転先。

yoyogitizu6_1.jpg 近くに「田山花袋終焉の地」碑あり。花袋がここへ移転は明治39年。彼の『東京三十年』(岩波文庫)に、こう記されていた。「(社から帰ってまで来客の相手はたまらぬゆえ)代々木の郊外に新居をつくった。郊外の畑の中に、一軒ぽっつりとその新居を構えた」

 当時の氏は自然主義文学の拠点、博文館「文章世界」編集主任。忙しかったのだろう。静かな郊外の家で、あの『蒲団』などを執筆。自然主義小説のもうひとつの代表作が、前述の島崎藤村『破戒』。

 次に「西参道」の反対側へ。記憶通り参宮橋側(代々木4丁目方面)は急坂で下っている。劉生の「道路と土手と塀(切通之写生)」や「代々木付近の赤土風景」などはこの辺で描かれたに違いないと、あちこちの急坂を登り降りしていたら、何ということでしょう、「立正寺」脇に「岸田劉生が描いた〝切通しの坂〟」なる碑柱があるではないか。

 勘がピタリと当たった。碑柱に「名作「切通之写生(重要文化財)は大正4年に発表された」とあった。劉生「赤土風景連作」はまさに〝都市開発最前線風景〟だった。ちなみに松本清張『半生の記』文庫表紙も同絵。東京のコンクリート・ジャングルの地下は〝赤土〟で、そこに江戸・明治・大正が眠っている。(続く。次は劉生の鵠沼時代へ)

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。