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劉生4:充実の鵠沼時代 [スケッチ・美術系]

reiko4_1.jpg 岸田劉生26歳、大正6年(1917)。より温暖な地・鵠沼へ移転。草土社、白樺派メンバー、そしてバーナード・リーチも訪ね来る。椿貞夫も引っ越して来た。梅原龍三郎は鎌倉で、萬鉄五郎は茅ヶ崎。大正期の湘南画壇はちょっと熱かった。劉生の健康も回復してパトロンも増え〝劉生の鵠沼充実期〟へ。

 若い画家らの信奉者が多かったのは、彼が展開する画論・芸術論などの筆力(父親譲り)も影響大だったろう。大正7年『麗子肖像』から麗子連作も始まる。大正9年元旦から克明な「絵入り日記」(大正14年7月まで一日も欠かさず)を書き始める。この頃の画論「内なる光」について富岡秀雄著では、以下のように要約していた。

 「印象派はものの表面に当る光によって対象を認識し、刻々と変わるその見え方の違いに注目した。だが劉生は逆にものの表面ではなく、ものの奥にあるものを表現しようとした。有形な対象によって形而上の無形な精神まで捉えようとした」

 後期印象派風から、対象の生命感をも細密描写で描こうとする「写実的神秘派」を自称。麗子像、友人肖像などはアルブレヒト・デューラー(ドイツ・ルネサンス期)風に。小生の素人感想では、油彩ゆえ脂ぎった顔をマクロ撮影したような迫力満ちたリアリズム。

 写実を極めると、また次の画境へ向かう。京都での個展を機に、唐絵や肉筆浮世絵への関心を抱く。 麗子像も中国宋元時代の画家・顔輝が描く寒山の顔に似てくる。それまであの画材、技法では絶対に写実は無理と断言していた日本画を認め、さらに水彩画も再認識する。

 「筆触を重ねて美を追求する油彩に比し、唐画や日本画はまず対象美をすっかり飲み込んだ上で筆触少なく描くところに味・美が生まれる。水彩は〝美をいきなり掴む独立した芸術作品〟だ」。新概念を激しく展開。なんだか岡本太郎みたいと思ってしまった。

 大正11年「東洋芸術の『卑近美』に就いて」「写実の欠如の考察」「デカダンスの考察」を発表。瞠目すべき画論。内的にも充実の日々に、大正12年9月1日の関東大震災が襲った。

 「十二時少し前かと思う。ドドドンという下からつきあげるような震動を感じたので、これはいけないと立ちあがり、蓁につづいて立って玄関から逃れようとした時は大地がゆれて~」と緊迫の日記。家屋半壊。充実の鵠沼時代が無残に終わった。

 挿絵は中国宋元期の画家・顔輝が描く寒山の顔と、それに似たデフォルメの麗子像の対比部分模写。

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