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劉生5:「内なる美」「卑近の美」など [スケッチ・美術系]

jibunnokao1_1.jpg 劉生の鵠沼時代の充実について、もう少し記す。前回、デフォルメされた麗子像を簡易模写したが、この辺は「内なる美」から「東洋の〝卑近美〟」へ移った例。門外漢の小生には難解だが、岸田劉生随筆集より『東洋芸術の「卑近美」について』をまとめてみた。

 「東洋芸術には、概して一種の卑しさ、下品に見える味があって、実はそこに〝渋い美〟が多く見かけられる。それは露骨な美(端正、偉大、権威、伝統的写実)とは正反対の〝卑近美〟だ。日本の踊は概して西洋の舞踊に較べて端正の味を欠く。歌舞伎の所作にもある種の卑しさに似た渋い美の味がある」

 小生は北斎の裸踊り図を模写したことがある。それが歌舞伎舞踊の「願人坊主」「うかれ坊主」でもあり。その味は下世話で露骨に違いない。劉生はこう続ける。

 「概して東洋美術及び日本美術の味には端正とか、権威とか、精神的というか倫理的感銘が欠けているかのように見えると思う。露骨な美(端正な写実)と〝卑近美〟がある。例えば水墨画の深さは西洋美に匹敵して劣らない。ならば美は二つあるのか。いや、そうではない。東洋の美は露骨性が避けられ、匿(か)くされているのだ。そこに〝渋さ〟がある。一皮剥ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さがある。それが東洋美術の〝卑近美〟である。ゆえに全美術家は、通俗さを恐れなければいけない」

 そして「デカダンスの考察」へ。デカダンスを分類分析した後で「日本の音曲の江戸末期のあるものは、明らかに本質上のデカダンスでありながら、必ずしも非芸術として捨ててしまえない一種の芸術的な魅力を持つ。一種の芸術的な魅惑となって我々の感情を一種の陶酔に導くのは何故か」

jibinkao3_1.jpg そして自答する。「それは技巧の味覚である。江戸末期の芸術は、多く技巧の繊細に走って、それがますます鋭くなるにつれ、芸術上の本質が腐ってゆく代わりに、技巧の味覚だけは非常に進んだ。その技巧の持ち味が人を或る陶酔に誘うのである」

 劉生の当時の日記を読むと、夫妻で三味線や長唄の出稽古を受け、日々上京の折りには必ず東洋・日本美術品を鑑賞しては蒐集の欲を募らせていた。だが富山秀男著では「劉生のそうした進化が、関東大震災後を契機に欧州から流入の前衛的画風が画壇主流となり、次第は無視されていった」と記す。劉生は油彩で日本画風に、または水墨画を、油彩で大首絵風を描いたりと彼の探求心は限りなく展開するのだが~。

 さて挿絵は劉生自画像の油彩、素描淡彩を一皮崩してみれば、何かが見えてくるような気がしてデジタル処理してみた。ははっ、どちらの絵が油彩か素描かが分からなくなってきた。これで色を抜けば水墨画にもなろうか。こんな遊びはきっと「剽窃・加工」でいけないこと。(続く)

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