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荷風の友・井上唖々とは(1) [永井荷風関連]

kafuaa1_1.jpg 時に荷風関連記事の閲覧あり。読み直せば、荷風と〝水魚の交わり=井上唖々〟の名を流し記すも、彼の人となりを記さなかった反省と、ネット上でも彼の詳細記述少なく、改めて調べ直してみた。

 まずは秋庭太郎著『考證 永井荷風』を参考にする。荷風と井上唖々が出会ったのは、荷風の東京高等師範尋常中学校(神田一ツ橋、6年制)時代。荷風は明治24年、12歳で同校2年編入学。軟派・荷風は硬派の寺内壽一(後の元帥陸軍大将)らに殴られている。

 荷風は病弱で長期療養で1年留年。その間の読書で文学に親しんだ。17歳より尺八と三味線の稽古を開始。併せて書を岡三橋に、絵を岡不崩(横山大観と共に東京美術学校の第一期生)、漢詩を岩渓裳川に学んだ。漢詩を共に習った同級生・井上唖々と親しくなる。

 余談だが、荷風が絵を習っていたとは知らなかった。荷風は師の不崩とは晩年まで交際を続けたそうな。荷風が描く絵に、かく謂れがあったと改めて認識した。ちなみに弟・威三郎(後に農学者)も同中学在籍で、彼の同級生で図画は〝藤田嗣治か威三郎〟と言われたそうな。威三郎は昭和35年の西欧旅行の際のパリで藤田に逢い〝少女像〟を額入りで贈られ持ち帰った。藤田は日本画壇に愛想をつかしフランス国籍、レオナール・フジタになった後だろう。

 話を戻す。秋庭著より井上唖々(本名・井上精一)経歴を簡単に記す。~金沢藩士の長男。明治11年、名古屋生まれ。幼少より父と東京飯田町に住み、第一高等学校第一部を卒。東京帝国大学独文科に学ぶも、病のために学業を廃し、書店に勤める傍ら雑筆を以て口糊とした。英独語に通じ、漢文学の素養浅からず、式亭三馬や斉藤緑雨風の滑稽風刺文を得意にした。

 日本史に明るく、芝居を好み、俳諧に遊んだ。文壇に見向きもせず陋巷陰士的生活をよしとし、酒を愛し清貧に甘んじ、明治43,44年頃に継母と衝突して深川東森下町近くの裏長屋に女と隠れ住む。

 その後、正妻みねを娶り二子を設ける。大正時代に籾山書店勤務後に毎夕新聞に入社(酒が呑める暮し優先で校正係りに甘んじる)。荷風主筆の文芸雑誌『文明』『花月』の編集に協力。大正12年、46歳で〝脱俗陰淪(だつぞくいんりん)の一生を終わった。著書に『猿論語』『酒行脚』『裏店列伝』『小説道楽』『遊楽書生』など。荷風との合作『夜の女界』。

 挿絵は荷風帰朝後に浅草で撮った写真を参考に描いた。二人、無頼ぶっている。写真ではよくわからないが荷風は髯を蓄え、唖々は丸眼鏡を外しているか。(このシリーズ4、5回は続きそう)

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