SSブログ

荷風の友・井上唖々とは(2) [永井荷風関連]

rasosanjin1_1.jpg 荷風による『井上唖々君のこと』を読む。書き出しに「本年七月十一日肺結核で永眠した」とあり、亡くなったニケ月後、大正十二年九月「枯野」発表の原稿。前回との重複部分を割愛し、( )に注釈や訂正も加えつつ概要引用する。

 ~彼は秀才で在学時より書店「大学館」の編集部員。同館発行誌「活文壇」は生田葵山(きざん)君編集で井上君が其助手を勤めていた。同誌の俳句選者は河東碧梧桐(かわひがしへきごろう)氏。在学当時は漢文を島田篁村(こうそん)の塾に学び、漢詩を(荷風と同じ)岩渓裳川(いわたにしょうせん)に学んだ。同級生に俳句を作る者がいて時々俳句会を開催。仲間には正岡子規の処に出入りしていた者もいた。

 (荷風十九歳の時)明治三十一年に自作『簾の月』を携えて広瀬柳浪氏を訪ねた時も井上君は同行した。また唖々君は葵山君の紹介で巖谷小波(いわやさざなみ)氏の「木曜会」に出席するようになった。(荷風自身は挿絵の清国人・羅臥雲〝蘇山人〟の紹介で「木曜会」に参加と記している)

 唖々君の「大学館」勤務は明治三十四年から大正元年。同館退社の数年は遊んでいたが、その間に加賀藩の編纂所で史料記載。細君を迎えてから一時深川の森下に住んでいたが、間もなく以前の加賀藩の関係の本郷の前田邸内の家に戻った。明治四十三年に私が慶応義塾講師になって『三田文学』を編集したが、その第一号に唖々君小品文を載せた。

 大正元年、荷風最初の結婚(材木商の次女ヨネさん)は、唖々の両親夫妻が仲人。同年末に父・久一郎が脳溢血で倒れた時、荷風は新婚に係わらず八重次と箱根で逢瀬。翌年一月の父・死去の翌月にヨネと離婚し、八重次を外妾にした。大正三年に市川左団次夫妻晩酌で八重次と結婚も、半年程で彼女は置手紙を残して荷風に別れ。

 大正五年(慶応、三田文学を辞めて)に籾山庭後、井上唖々らと雑誌『文明』を創刊。同誌は丸二年続き、其の後の『花月』は私の処に発行所を置き、編集を唖々君がやってくれた。大正七年に唖々君が「毎夕新聞」入社で『花月』廃刊。彼は亡くなるまで「毎夕新聞」に在社。主な著は『夜の女界』『猿論語』と『小説道楽』(荷風渡米前に大学館から刊。荷風を主人公にしたモデル小説)。君の家の菩提所は白山の蓮久寺であるから、君もそこに葬られたのであろう。~で同随筆は終わっていた。

 挿絵は荷風を「木曜会」に紹介した羅臥雲(らがうん)。男もゾクッとする眉目秀麗とか。写真を見ると描かなかったが右手が女性仕草っぽかった。羅臥雲については「荷風句雑感(その3)」で詳細を記したの省略。(次は『断腸亭日乗』や随筆『深川の散歩』に書かれた井上唖々について~)※明日から1週間ほど〝島暮し〟。帰京後に続きをアップ。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。