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荷風の友・井上唖々とは(3) [永井荷風関連]

aameiji452_1.jpg 永井荷風は『断腸亭日乗』昭和五年七月(荷風五十一歳)でも井上唖々の詳細を記している。八回忌に白山蓮久寺へ掃苔せんと家を出るも雨に遭って叶わず。「平生(へいぜい)から彼の詳伝をつくらむと思ひながら老いて懶(ものう)く遂に果さず。年々物事忘れ勝ちになり行けばここに思出るままを識し置くべし」と書き出している。

 前二回との重複部分を割愛し、まずは二人がこれ程までに仲良くなったのは~「子が高等学校に学びし時は厳君(=父君)が家を麹町飯田町三丁目に移したり。恰是時(あたかもこれと)余が家も小石川より飯田町もちの木坂に移りしかば日として相見ざるはなく交誼〝水魚の如く〟なりき」。※正確には小石川から麹町区飯田町三丁目もちの木坂下へ。翌年に麹町区一番町四十二番地へ移転。※本名は精一、号は九穂、玉山、晩年は不願醒客。荷風の日乗では号が記されること多々で、覚えておく必要がある。

 秋庭著には、荷風家の一番町移転後エピソードが記されている。「唖々の家から九段坂を登れば直ちに一番町の荷風の家に至る。(中略)九段下から唖々が大荷物を背負ってきた。それは唖々家の本で、二人はそれを質屋へ持ち込んだ金で人力車を北廓(吉原)に飛ばした」

 荷風文に戻ろう。「(子は)明治三十二年に至り高等学校を退学し、予及木曜会の諸生と提携して文学雑誌〝活文壇〟を刊行せり。同誌廃刊の後唖々子は雑誌発売の書店大学館の編集員に雇はれ、大正改元の秋頃まで凡そ十四五年間通勤し居たり」 次は人となりとプライベートを紹介。

 「子は二十歳の頃より当時の青年と全く性行(せいこう、性質と行い)を異にしたる人にて名聞を欲せず成功を願わず唯酒を飲むで喜ぶのみ。(略)。明治四十三年八月都下大洪水の頃、子は凡一年余り元下谷の妓なりし女と狎れ親しみ深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり。子が〝深川夜烏〟と称せしは此の故なり」。その当時の暮しを唖々自身が記していて、荷風がその部分を引用紹介している文もある。それは次回紹介で、この荷風文を続ける。

 「明治四十四五年の頃甲州の人某氏の女を娶り男子二人を挙げたり。大正七年の冬に毎夕新聞社の三面に筆を執りしが、数年後に活版所校正係となれり。日々愚にもつかぬ世間の俗事を記述するは永く堪ふべき所ならず(略)それより酒飲む暇の多き閑職こそ望ましけれと言ひ」。そして最晩年の紹介。

 「大正十二年六月の中旬友人某々等と共に麹巷の旗亭(きてい=酒場、料理屋)に登り、飲んで夜深に至り醉倒(すいとう)して遂に起つ能(あた)はず。翌朝友人に扶けられて東大久保の僦居(しゅうきょ、借家)に帰りしが、病處に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しぬ。年を享(うけ)ること四十有六なり」

 挿絵は再び井上唖々。前回は無頼風も今回は所帯を構えた頃の写真だろうか、それを参考に描いてみた。次は終焉地・東大久保、深川の妓とは?調べてみる。

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