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荷風の友・井上唖々とは(4)終焉地 [永井荷風関連]

nisimukitenjin_1.jpg 「東大久保の僦居に帰りしが、病處に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しむ」。荷風文を書き写して、思わず「東大久保だと?」。我家近所じゃないか。〝東大久保〟を調べてみなくてはいけません。

 そこで『断腸亭日乗』大正十二年七月十一日をひも解く。「午後速達郵便にて井上唖々子逝去の報来る。夕餉を食した後東大久保の家へ赴く。既に霊柩に納めたる後なり。弔辞を述べ焼香して帰る」 以後、唖々に関する記述はなく九月一日の関東大震災を迎える。『日乗』を遡ってみる。

 大正十一年四月二十五日:井上唖々子厳父如苞翁逝去の報に接す。(荷風は唖々の父の葬儀で焼香した後に、唖々家菩提寺の近く、白山・本念寺で大田南畝、南岳=南畝甥の墓を掃っている。この時期の日乗には頻繁に地震記述あり。大震災の兆候だろう)

 八月二十三日:唖々子書を寄す。頃日本卿加州侯邸内の旧居を引払ひ東大久保西向天神祠畔に移りしといふ。唖々子本郷に住すること実に二十三年の長さに及び、去るに臨みて涙なきを得ざりしといふ。余大久保売宅の事を想出して亦悵然たり。(唖々は父逝去で加賀藩邸を出ることになって西向天神祠畔の借家へ移転。荷風はつい先日に大久保余丁町の家を売却したばかり。なお本郷住所は『断腸亭尺牘(しゃくどく、書簡)』によれば本郷元富士町二番地前田邸内)

 そして大正十二年五月九日:毎夕新聞社に唖々子を訪ふ。その後健康次第に頽廃せしものゝ如く顔色憔悴し、歩行も難儀らしく、散歩に誘ひしが辞して其家に帰れし。唖々は体調を崩して弱っている。荷風さん、心配してたびたび唖々を訪ねている。

 六月十二日:東大久保村西向天神祠畔(しはん)の寓居に唖々子の病を問ふ。甚だしく気管支を害し、肺炎を起せしなりと云ふ。専心摂生に力めなば恢復の望未全く絶えたりとも言ひがたきやうなり。されど衰弱甚だしく見るからに痛ましきさまなり。細君はさして心配の様子もなきやうなるは如何なる故歟(か)。夕陽枕頭に映じ来る頃再見を約して去る。そして七月十一日の唖々逝去の報。

 以上によって井上唖々が本郷から東大久保へ移転の経緯と場所が特定でき、亡くなった状況もわかった。西向天神は荷風『日和下駄』に〝夕陽〟の項に登場。弊ブログでも長谷川雪旦の精緻スケッチ「江戸名所図会」と、広重のデフォルメされた「絵本江戸土産」の両西向天神の絵を紹介済で、ここでは境内を撮った写真をアップ。

 今年五月、西向天神社・例大祭の笛の音に誘われて里神楽「悪鬼退治」を拝見した。あのリフレインされる妙なる笛と鼓の調べを井上唖々も聴いただろうか。

 なお最後に唖々を見舞った荷風は、その足で余丁町の旧宅前を過ぎ、谷町通善慶寺〝平秩東作の墓〟を掃苔。「東作の建てたる其父母の墓と、稲毛屋次郎右衛門と刻したるもの二基ありも〝平秩東作の墓〟がわからなかった」と記している。小生は確か東作は父母の墓に眠っていると聞いている。墓標は「南無阿弥陀仏」、台座に「立松之墓」とあったはず。荷風さんに教えてあげれば良かった。次回は唖々の内妻と本妻について。

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