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荷風の友・井上唖々とは(5)内妻と本妻 [永井荷風関連]

yaeji3_1.jpg 井上唖々の終焉地が東大久保の西向天神祠畔(しはん)とわかった。だが唖々と云えば〝深川の陋巷暮し〟が有名で、荷風の憧れだった。そこは深川「大久保長屋(湯灌場大久保)」で、二つの〝大久保〟が紛らわしい。今回は荷風が憧れた唖々の深川暮しをテーマにする。

 荷風文の「(唖々は)深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり。子が〝深川夜烏〟と称せしは此の故なり」が〝大久保長屋〟で唖々の女は「阿久(おひさ)」さんだった。これは荷風の随筆『深川の散歩』に詳しい。

 同随筆には、彼らが若き頃に編集の「文明」に、唖々が「深川夜烏」の名で大久保長屋暮しについて記した文を掲載で、荷風が長文引用している。まずはその地を確認する。〝六間掘に沿った東森下町の裏長屋〟は、隅田川の「新大橋」と上流「両国橋」に挟まれた〝川向こう〟。現・都営新宿線「森下町」駅辺り。

 「東森下町には今でも長慶寺という禅寺が在る。此寺の墓地と裏河岸との間に、平屋建の長屋が秩序なく建てられてゐて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横に通じてゐた。長屋の人達はこの處を大久保長屋、また湯灌場大久保と呼び~」なる書き出しで、深川夜烏こと唖々がその暮しを書いている。

 「露地を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久(おひさ)の家で、即ち私の奇遇する家である。阿久はもと下谷の芸者で、廃(や)めてから私のせわになって二年の後、型ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。(両隣の家族を紹介してから)私の家は二畳と四畳半の二間切りである。四畳半に長火鉢、箪笥が二棹と机。そこに阿久とお袋と阿久の姉と四人が住んで居るのである。そこで型ばかりの式を友人十人ばかり招いて酒宴を張ったのが明治四十三年六月九日だった」

 荷風は同随筆で、唖々の明治四十四年五月の深川芝居見物の顛末記も引用紹介している。荷風はそうした亜々の生活を「裏長屋に潜みかくれて、交りを文壇にも世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでゐたのを見て、江戸固有の俳人気質を伝承した真の俳人として心から尊敬してゐたのである」と記している。

 亜々と阿久一家が何時、何故に別れたかは不明だが、彼は次に「みね」を正妻にして二子を設けたのが本郷元富士町二番地前田侯邸内」。永井荷風の水魚の交わり=井上唖々調べは、この辺で区切りをつけたい。挿絵は唖々が東森下町の長屋暮しをしていた頃の荷風のお相手・新橋巴屋八重次、後の藤間静枝さん。

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