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ジャポニスム3:ホイッスラーⅡ [北斎・広重・江漢他]

whishiro1_1.jpg 野上秀男『日本美術を愛した蝶~ホイッスラーとジャポニスム」を読む。こんな時代(あらゆる意を含み)の今年一月に、十九世紀末の画家ホイッスラーの評伝書が出版とは。まずは冒頭文。

 ~十九世紀後半、日本美術を初めて知った西洋の画家たちは衝撃を受けた。彼らは浮世絵版画の鮮やかな色彩、繊細な線、独創的な形象のとらえ方、構図などに感嘆したのである。西洋美術における日本美術の影響はジャポニスムと呼ばれ、西洋人画家たちは、その手法を自分たちの作品に取り入れようとした。そうした試みに最も早く取り組んだ画家の一人が、パリとロンドンで活躍したアメリカ人画家、ジェイムズ・マクニール・ホイッスラーであった。

 単行本一冊の評伝ゆえ、前回ブログに大量追記したくなるも、ここは「興味ある方は同書をどうぞ」で省略し、破産後のホイッスラー逸話を同書より簡単紹介。

 名を成せば富豪も注文で、画家は金満になる。邸宅装飾を頼まれて、自邸も建てたくなった。「ホワイトハウス」と呼ばれた外観に、意匠を凝らした室内装飾。1878年秋に入居だが、半年後に経済破綻。作品批判のラスキン相手の訴訟費用もあって邸宅、蒐集してきた日本美術品も競売へ。

kyobasihiro1_1.jpg ホイッスラーさん、めげずにベネチア風景のパステル画を百点、エッチング五十点で負債額に近い収入。富豪らの肖像画もセッセと描いた。1885年(明治十八年)、美術思想と主張を語る「十時の講演」ツアー。企画はオペレッタ『ミカド』のプロモーター女史。

 裁判、経済破綻、講演で再び人気上昇。メンペスとショカートが弟子入り。メンペスは師に内緒で来日し、河鍋暁斎に逢った。暁斎の弟子ブリンクリーとコンドルについては弊ブログ「青山・外人墓地」で紹介済。ホイッスラーは帰国したメンペスから、日本人画家らの話を食い入るように聞いたそうな。弟子の二人は後に英国を代表する画家へ。

 1886年、ホイッスラーは英国画家協会・会長に就任。米国人鉄道事業の成功者フリーアがパトロンになって、作品は高値で次々に米国へ渡った。ボストン美術館を無期休職されて生活苦のフェノロサがフリーアの日本古画購入に助言し、自身が持つ蒐集品も彼に買ってもらったそうな。

 ホイッスラーは1903年(明治三十六年)に69歳で病没。彼の「講演」内容も記したいが、「ジャポニスム」は印象派巨匠らも控えているので終わる。写真は『ノクターン:靑と金色~オールド・バターシー・ブリッジ』と歌川広重『京橋竹がし』。似ているでしょ。

 また、永井荷風はこう記している。「ホイスラアが港湾溝渠の風景の如き凡て活動動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたる事僅少ならず。(続く)

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