SSブログ

ジャポニスム7:林忠正とはⅠ [北斎・広重・江漢他]

tadamasa2satu_1.jpg 印象派の画家らが「ジャポニスム」熱中のパリで、日本美術品を売る「ビング」と「林忠正」の店~と記した。そこで今回は「林忠正」について。木々康子著『林忠正とその時代~世紀末のパリと日本美術』、定家武敏著『海を渡る浮世絵~林忠正の生涯』両著より、林忠正とは~を要約してみる。

 林忠正は1856年(安政三年)高岡生まれ。生家はオランダ医学を修めた外科医・長崎家。十四歳で林家・養嗣子になって林忠正。上京してフランス語を学び、翌年に貢進生で南校入学。その後に廃藩置県かつ養父失脚で藩費喪失。新川県の給費生で東京開成学校へ。1878年(明治十一年)、大卒直前だったが二十四歳で四度目のパリ万博出店の起立工商会社(政府出資)の通訳募集に応募して渡仏。

 同社背景には、弊ブログの「岡倉天心、フェノロサ」関連で幾度も登場の「瀧池会」の存在あり。「日本美術で輸出増加を図る」趣旨で設立。パリ万博の初参加は1867年(慶応三年)。この時に出品の浮世絵が若い印象派の画家らを虜にした。

 浮世絵はそれ以前に、1856年(安政三年)に日本から送られた陶器の詰め物に「北斎漫画」があって、版画家ブラックモンが注目。それをマネ、ドガ、ホイッスラーらに見せ回った。または1862年(文久二年)にモネがル・アーブル港の着荷の中から日本の色刷り版画を見つけた等々の諸説あり。

 林忠正に話を戻す。パリ万博終了と同時に解雇。フリーの通訳になる。日本からの警察制度調査の大警視一行の欧州視察の通訳、有栖川親王の欧州御巡回の通訳などで存在感を得る。そこに起立工商の副社長・若井兼三郎(瀧池会の主要会員)がパリ支局の立て直しに来て、忠正に共に働くよう要請。立て直しが成功し、本社機構の改革を訴えるが叶わずで若井、忠正共に退社。

 忠正は1883年(明治十六年)にパリの下宿で美術店を開業。経営順調のなか、翌年に若井がパリに戻って「若井・林カンパニー」設立。今度は若井が日本で大量の美術品を仕入れてパリへ発送、忠正が売り捌くシステム。忠正は英国・米国まで販路を拡大しつつ、次第に古美術鑑定眼と知識を増し、各国美術館の顧問も務めるようになった。

 1886年(明治十九年)、林忠正は仏国有力紙「パリ・イリュストレ」の日本特集号の全編を仏文執筆・編集。忠正の存在・評価が高まった。やがて若井とも別れ、独立してパリ都心に店を構えると、たちまちに地下~四階の店舗拡大。忠正が海外で売り捌いた浮世絵はン十万枚とか。他に巻物、絵本、肉筆画、屏風など膨大。日本の浮世絵が根こそぎ海外流失。日本での仕入れは妻・里子はじめの東京陣営が担当したとか。(続く)

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。