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ジャポニスム6:ゴッホの場合Ⅱ [北斎・広重・江漢他]

tanemakuhito2_1.jpg さて、ゴッホの「ジャポネズリー」が「ジャポニスム」へどう深化したか。

 ゴッホが南仏へ旅立ったのは、浮世絵模写の翌年。アルルの明るい色彩=日本のように美しい光溢るる日出ずる国=色彩の饗宴。ゴッホの心は躍った。

 「もう日本の絵は必要ない。僕は日本にいると思っているから。感銘を与える目の前のものを描きさえすればいいんだ」。『黄色い家』『ラ・クロの収穫』『夜のカフェテラス』『郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像』『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』『アルルのゴッホの寝室』『アルルの跳ね橋』『ひまわり』など三百点余。

 ゴッホは従来画家が成し得なかった鮮やかな色彩、色彩の単純化、大胆な構図、素描の早さ、繊細さ、平面的な色面などを掌中にした。

 だが彼はどう解釈を間違えたか? 日本は決して「南仏のように光溢るる国」ではないし、絵師らは作品交換をする「共同生活者」でもない。彼の胸をときめかしたのは〝大いなる幻想の日本〟だった。

 ここで圀府寺司著『ファン・ゴッホ』他を読む。ゴッホの父は牧師。当時のオランダは「ドミノクラシ―」(牧師支配の状況)で聖職者が文化的指導者。彼も牧師になるべく勉強を始めたが、次第に近代化の波が押し寄せて教会離れ。ゴッホも聖職者を諦めて画家を目指した。当初は炭鉱夫、その妻たち、職工、農夫を描いていたが、パリに出て印象派の洗礼を受けた。そこに浮世絵があった。

 小生はやはり、こう思う。ゴッホは「聖職者・伝道師」への〝激しい情熱〟を「浮世絵・日本」への想いに〝すり替え〟た。その結果、彼のジャポニスムは絵画に収まらず、〝幻想の日本〟へ精神丸ごと入れ込んだ。彼は仏僧にも憧れたが〝隠棲〟を知らず、〝陰翳礼讃〟を知らず、〝粋〟を知らず。さらに云えば浮世絵の肉筆画とは違う〝木版画特有の優しき色調〟(荷風)をも知らず。逆に余りに他者との絆を求め過ぎてゴーギャンとも破綻した。

 1890年(明治二十三年)、ゴッホはパリ郊外の旅館滞在中に拳銃自殺?で享年三十七歳。写真は『種まく人』。その構図は彼が模写した広重『江戸百/亀戸梅屋鋪』に似ている。なお、十月二十四日から東京都美術館で「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」開催とか。日本人はなぜにこうもゴッホ好きか。次は「林忠正」について。

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