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ジャポニスム5:ゴッホの場合Ⅰ [北斎・広重・江漢他]

tangijiisan1_1.jpg ゴッホは1853年(嘉永六年)、オランダ南部生まれ。日本は開国までオランダが唯一の欧州交易国。1837年(天保八年)よりシーボルトの日本資料が民族学博物館に陳列とか。港町には日本からの輸入陶磁器を売る店が随所にあったそうな。

 ゴッホは十六歳より美術商グーピル商会に勤務。二十歳の時に、弟テオが同商会ブリュッセル支店勤務で、ゴッホはロンドン支店からパリ本店勤務へ。やがて大学で神学を学び聖職者を目指そうとするも挫折。伝道活動をするも余りに献身的過ぎて伝道仮免許停止処分。

 1880年(明治十三年)、二十七歳で画家になると決意。1885年(明治十八年)、弟宛の手紙に「大好きな日本の版画コレクションを壁にピンで留めて~」の文言あり。ゴッホがパリの弟の処に転がり込んだのが翌年。折しも日本ブームで、第八回印象派展(最後の開催)を観て仰天した。

 弟は画商仕事で新進画家らとお付き合い。スーラ、ドガ、シスレー、モネ、ピサロを紹介してもらう。交友がロートレック、べルナール、ピサロ、ゴーギャンへと広がる。ゴッホの絵も印象派、後期印象派らの影響を受けて行く。

 カフェ(キャバレー)「ル・タンブラン」の女主人セガトーリを描いた絵には、カフェの壁に浮世絵あり。当時のパリで日本美術品を扱う主な店は、ビングと林忠正(彼の評伝書二冊読了ゆえ後述予定)の店。ゴッホ兄弟はビングの店の版画を委託販売したり、浮世絵展を開催。そして画家仲間との交流の場のひとつが、画材屋のタンギー爺さんの店。

 ゴッホは1887年、林忠正による日本特集の雑誌表紙(英泉『花魁』)を、広重『亀戸梅屋舗』や『大橋 あたけの夕立』を模写。『タンギー爺さんの肖像』もこの頃の作で、背景に多くの浮世絵を描き込んだ。

 タンギー爺さんは、貧乏な印象派の画家らを助ける素朴でユートピア的社会主義者で、ゴッホには日本の僧にも思えた存在。描かれたタンギー爺さんは、仏陀のように正面向きで両手を組んでいる。馬渕明子著では背後の浮世絵を右上が広重五十三次名所図会「石薬師」、右下が英泉「花魁」、頭の後ろが広重の漁網越しの富士山、左上が広重の雪景色、左中が歌川豊国「岩井粂三郎の三浦屋高尾」、左下が伊勢辰「東京名所 以里屋」だろうと解説。長くなったので、ここで区切る。(続く)

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