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ジャポニスム10:クリムトの場合 [北斎・広重・江漢他]

klimt2_1.jpg 再び馬渕明子著『ジャポニスム』に戻って、グスタフ・クリムトの場合をお勉強。著者は「ウィーンでのジャポニスムは、パリに比して神話・歴史を題材の歴史様式が圧倒的に続き、日本美術が入ったのも遅かった。パリ万博六年後の1873年(明治六年)にウィーン万博で、絵画より工芸美術品中心だった」と説明。

 ウィーンは〝いわく〟在り気で、同著を離れて「ウィーンの歴史」を覗いてみれば、やはり十九世紀後半~二十世紀初頭に史上稀な〝文化爛熟=世紀末ウィーン〟があった。当時は「オーストリア・ハンガリー帝国」で多彩な民族性融合国家。従来の帝国体制凋落に従ってコスモポリタン要素を含んだ文化爛熟が盛り上がった。

 シュトラウス、ブラームス、マーラーなどの音楽家。グスタフ・クリムトは1862年(文久二年)のウィーン郊外生まれ。フロイトより六歳年下で、カフカより二十一歳年長。前述ウィーン万博の三年後に工芸学校入学。1879年(明治十二年)ころから弟や仲間と建築系装飾の仕事を開始。

 美術史館の中庭、ストゥラーニ宮殿の天井寓意画、皇妃別荘、劇場内装など。1897年(明治三十年)、アカデミックな芸術団体を嫌った人々で「ウィーン分離派」を形成し、三十五歳のクリムトが会長に就いた。

 その頃の彼は、どんな絵を描いていたのだろう。『ジル・ネレー翻訳画集』を見ると、フロイトの影響もあったのだろう、早くも裸体画中心のエロティスム追及。同年の寓意画「悲劇」を見れば、馬渕著には記されていなかったが、女性を囲む幅広額縁に「龍」が描き込まれていた。美術史館の壁画ゆえ、同館の日本コレクションを参考にしたと推測される。また描かれた女性は娼婦風とかで「分離派」ならではの作品。

 馬渕著では、1890年(明治二十三年)頃から後にウィーン分離派になる若い人々は日本文様(水流、渦巻、立湧、唐草模様、鱗模様、靑海波、家紋など)を多用で、平面化が顕著だったと指摘。

 クリムトと云えば〝金箔〟。その平塗りならば伝統的遠近法を覆す象徴。著者は「それぞれの文化で異なった〝ジャポニスム〟が生み出されるところも面白い」と指摘していた。小生はクリムト晩年の素描群を見れば、版画春画の影響大と思うのだが、いかがだろうか。

 写真は背景に東洋系カットが描き込めれたクリムト作品。モネ「ラ・ジャポネーズ」、ゴッホ「タンギー爺さん」と較べたくなる作だが、モネより四十年、ゴッホより二十九年遅い。

 なおアドルフ・ヒトラーはウィーン美術学校受験に失敗し、ヒトラーより一歳下でクリムトを師としたエゴン・シーレは同校入学で、師と同じく「エロス」を追求。世紀末ウィーンはなかなか奥が深そうです。(続く)

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