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ジャポニスム19:北斎のバレ句 [北斎・広重・江漢他]

hokusaisenryu.jpg かつて宿六心配著『北斎川柳』を読んだ。上品に育った小生は、余りの下劣さに、こりゃ~眉唾だぁとブログに記すのを躊躇した。いい機会ゆえに確認してみよう。

 永田生慈監修の図版本を読めば、巻末に『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』収録の北斎川柳が二百句ほど掲載。飯島虚心『葛飾北斎伝』にもこんな一文あり。「北斎翁、嘗て川柳風の狂句を好み、名を百姓といひ、秀吟頗多し。実に葛飾連の棟梁たり」。

 永田著『葛飾北斎』(吉川弘文館)にも「北斎は文政六年頃から弘化三年(1823~1846)にかけて娘・栄と共に川柳の『誹風柳多留』に投句し、句選も行うなど本格的に活動。お栄も評を行う力量で発表句は七十四句」。さらにボストン美術館浮世絵名品展「北斎」図版のコラム(鏡味千佳)にも、北斎の川柳号は「卍」句が百八十二句、「万字」句が四句、「百姓・百性」句が二十八句。「カツシカ」句が二句。計二百二十五句と記されていた。

 これで宿六心配著は本当のことと納得した。「宿六さん、疑ってすみませんでした」。ちなみに幾つかの句を紹介してみる。~いゝのいゝのを尻で書く大年増/其腰で夜も竿さす筏乗り/まじまじと馬の見て居る麦畑/立ちながらこそ細布はおつぱづれ/擂粉木をきぬたに寺の秋牛房/指人形も居敷から手を入れる/この翁とうとうたらり水っ鼻/無理口説き大根おろしで引きこすり/間のわるさ月の影さす夜蛤/弱よく強を刺レマア寝なんしょ/婚礼を蜆ですます急養子~などなど。

 宿六著の解説をうろ覚えで記せば「立ながら~」は立ってイタす時の滑稽姿。「寺の秋牛房~」は坊主の逸物。「夜蛤」は夜鷹のこと。「馬の見て居る~」は麦畑でイタしている時の光景。性を大らかに笑っているエロ川柳=バレ句=破礼句=艶句ばかり。小生も読み解こうとしたが「江戸の秘語・隠語事典」なくしては解釈できなかった。

 画業には厳しい集中力が求められる。北斎と娘・お栄は、こんなバカ川柳を作っては笑い合って息を抜いていたのだろう。偶然だがお栄さん(応為)の肉筆画に素晴らしい『月下砧打図』あり。北斎の〝わ印〟も、そんな川柳に通じていたのだろう。

 北斎艶本の林美一&リチャード・レイン共同監修の解説を読むと「彼の艶本は文化十一年~文政四年(1814~1821)制作で、欧州で話題騒然の〝タコに犯された海女〟も文化十一年『喜能會之故真通(きのえのこまつ)』の一作、と解説。

 艶本制作期が北斎五十四~六十一歳の頃で、バレ句は六十四歳~八十七歳頃。まぁ、北斎の絶頂期じゃないか。こうなってくると北斎の〝わ印〟にも注目しなければいけないだろう。「ジャパニスム」とは関係なさそうだが浮世絵は町絵師=庶民(北斎は特に貧乏だった)の体制への反抗心、自由、自然生活感があってこそ。それが欧州画家らに強固だったキリスト教伝統文化から脱皮する勇気を促した。(続く)

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