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司馬江漢4:源内と春信と紫石と~ [北斎・広重・江漢他]

harusigebijin_1.jpg 江漢は最初に狩野派(黒田著:木挽町狩野派4代目・狩野古信では時代が合わぬゆえ、その実子・典信に就いたのだろう)の修行から始め、南蘋派の宗紫石(本名・楠本雪渓)に師事した。

 南蘋派については「ジャポニスム」シリーズで調べた。江戸では唐画。中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保16年(1731)に長崎に渡来して始めた派。特徴は色の濃淡でリアルな質感写実の描き方。

 「宗紫石は円山応挙と雁行の存在なり」と黒田著。応挙は円山四条派の大御所。彼は奥村政信の「浮絵」と同じく、オランダ渡来の遠近法で肉筆画、版画製作もしていた(吉田暎二著「浮世画入門」)。吉田著には遠近法で描いた政信と同じような応挙「芝居場内図」掲載。その意では奥村政信、円山応挙、宗紫石ともに雁行なり。

 黒田著は「江漢は紫石に師事しながら鈴木春信の門へ。これは紫石が放任したか、春信門下が先かは不明」と記すも、そこも小生は「ジャポニスム」でこう解釈していた。

 明和2年(1765)に鈴木春信が多色摺版画「錦絵」を創始した年、司馬江漢は19歳。神田の春信の借家に平賀源内が入居していて、源内ベッタリだった江漢は源内と春信の付き合いにも従っていただろうと。杉田玄白、宗紫石らも近所付き合い。紫石は源内著作の絵も描いている。皆、仲間だったんだ。

 芳賀徹著『平賀源内』の「神田白壁町界隈」にもこうある。~源内は明和2、3年(1765~6)の「大小の絵暦」ブームに一枚加わっていた。これは旗本や道楽商人らが連を組んで、暇と金と才にまかせた工夫で、大小の月を絵の中に巧みに隠し込んで張り合った遊び。これによって浮世絵は墨摺り、紅と緑を基本の紅摺絵から「見当」を付けての多色摺りへ。紙も薄い粗悪品から厚手の奉書に。顔料進化、彫工や摺師の腕も磨かれて「錦絵」誕生に至る。

 万象亭著『反古籠』にも「春信は神田白壁町の戸主にて画工なり。画は西川に学ぶ。風来先生と同所にて常に往来す。錦絵は翁(源内)の工夫なり」。この頃の江漢は、源内に従って秩父鉱脈探しにも付き合っている。源内に従えば春信とも交流で、江漢も錦絵誕生の渦中にいたと推測できる。

  なお万象亭の本名は桂川中良。源内門人かつ蘭学の桂川甫周の弟で秀才。明和7年に「紅毛雑話」を森嶋中良の名で編。(平野威馬雄著『平賀源内の生涯』より)

 明和7年(1770)、春信46歳で没。江漢の春信偽作は、源内に〝たきつけられて〟と推測する(これ小生案。多くの江漢研究者が版元・彫り・摺りの世界でそんな偽作は不可能だろうに~と記すも、源内企てなら可能だろう)。また源内が油絵「西洋婦人画」を描いたのも明和8年らしい。

 平賀源内と司馬江漢それぞれの年譜を付け合わてみると、面白いことが次々に発見できて面白い。挿絵は「春信款」の鈴木春重(江漢)「楼上縁立美人画」(国立博物館所蔵)。生前の春信はこんな背景(唐画風・遠近法)は描いていない。美人図より遠近法や背景の描き方の方が主役で、江漢ならではを強調している。 

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