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司馬江漢3:出自と絵師修行 [北斎・広重・江漢他]

sibahon_1.jpg もう少し江漢の出自・没年を探ってみる。『司馬江漢全集』(八坂書房1992年刊)第四巻末の成瀬不二雄「司馬江漢の生涯と画業」に、こんな記述あり。

 慈眼寺の過去帳に、父と思われる戒名のそばに「丸屋市良兵衛」との注記あり。細野正信氏紹介の儒者東条琴台の記に「江漢は江戸の四谷の生まれ、のち芝新銭座に移った」とある。父母と過ごしたのは四谷で、15歳で父を亡くして財産を失い、母の実家に寓居。後に芝銭座に移った。40余歳で土田氏に入夫して士分となって勝三郎、または孫太夫だろうと推測していた。新銭座町は裏長屋の密集地(芳賀徹著)。

 芝ゆえ「司馬」、号は江漢著『春波楼筆記』の「江漢後悔記」の項に「江漢とは、予が先祖は紀州の人なり。紀ノ国に日高川、紀の河とて大河あり。洋々たる江漢は南の紀なりと、故に号を江漢とす」。江漢と称したのは25,6歳頃らしい。

 黒田著には「江漢享年は72歳説と81歳説あり。81歳説は江漢晩年の空想的産物だろう」で、生まれは史跡文通り延享4年(1747)。生没に関してはこの辺で了とした。

 次は絵の修行について。延享4年生まれならば、その歳の先輩は奥村政信61歳、鈴木春信23歳、平賀源内19歳、杉田玄白・円山応挙15歳、歌川豊春13歳。後輩では大田南畝2歳下、葛飾北斎と山東京伝が15歳下になる。

 江漢誕生の4年前に、奥村政信が中国経由の透視画を見様見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を描いている。江漢誕生の翌年には羽川藤永(経歴不明)が、将軍への挨拶を終えた「朝鮮通信使来朝図」(神戸市立博物館)の一行を透視画で描いている。遠景に富士、江戸城石垣。それを背に常盤橋を渡って本町二丁目を行列する一行図。江漢誕生期には早くも「浮絵」普及だろう。

 そうして絵画状況のなかで、江漢は上記「後悔記」に「我が先祖に画を描きし者ありけるにや、吾伯父は吾親の兄なり。生まれながらにして画を善くす。其血脈の伝はりしにや、予六歳に時、焼物の器に模様ありけるを見て、其雀を紙にうつし、伯父に見せける。十歳頃に至りては、達磨を描く事を好みて、数々描きて伯父に見せけり」

 さらにこう続く。「長じて狩野古信に学べり、然るに和画は俗なりと思ひ、宗紫石に学ぶ、其頃、鈴木春信と云ふ浮世絵師当世の女の風俗を描く事を妙とせり、四十余にして俄に病死しむ。予此にせ物を描きて、板行に彫りけるに贋物と云う者なし、世人我を以て春信なりとす。予春信に非ざれば心伏せず、春重と号して唐画の仇英、或は周臣(共に明代の画家)等が彩色の法を以て、吾国の美人を描く~」

 次回は、この画業経歴の検証です。写真は『司馬江漢全集』と黒田源次著『司馬江漢』(昭和47年刊)。

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