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司馬江漢2:慈眼寺の史跡看板から [北斎・広重・江漢他]

koukanjigazo1_1.jpg まずは慈眼寺の墓碑・旧跡看板文から、司馬江漢の概要を記して見る。

 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(1770)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋(なんぴん)派の宗紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋画風の教えを受け、天明三年(1783)腐食銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)十月二一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書に「西洋画談」「春波楼筆記」「和蘭通舶」などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。

 墓碑裏面に「資堂金入不許萬古毀」。〝萬古毀すこと許さず〟で今も建っている。さて、史跡看板文としては長文で苦労してまとめられているが、そう簡単に参らぬのが司馬江漢です。黒田著に「関根只誠翁の名人忌辰録に麻布浄林寺に葬る。同寺は廃寺」の記述あり。その「名人忌辰録」を国会図書館データで読んでみた。

sibasisekibun_1.jpg 「名峻字君岳号不言道人俗称勝三郎後孫太夫本邦油絵の祖文政寅年十月廿一日没す歳八十二(※七十二)麻布浄林寺に葬る(本村慈眼寺にも墓碑ありと云えり)江漢は始め浮世絵師鈴木春信の門に入りて重信(※春重)と号し師没後二世春信と名のれり後長崎に行き蘭画を学び油絵銅板の術を得たり文才もありいさゝか蘭学をも伺ひ天文地理暦数の事にも心得ありてその筋の著述もあり又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委しきことは畧す」

 黒田著には江漢書簡「小人今は老衰腰痛み歩すること漸一里をかぎり候。先便に申上候通り、今麻布岡崖の辺地へ庵を結び、一人の老婆を遣ひ安居仕候~」が紹介されている。晩年の文化11年秋に、芝新銭座(浜松町駅から新橋方向へ徒歩3分ほど)から麻布笄町(現・西麻布)に転居。同地で亡くなったのならば麻布のお寺に葬られたとも推測できる。

 「又鯨を捕る法に尤巧みなりきとぞ委(くわ)しきことは畧(略)す」は面白そうなので、後述することになりそう。挿絵は黒田著のモノクロ掲載「司馬江漢(淡彩)」を着色簡易模写。江漢像は高橋由一の油絵が有名だが、由一もこの絵から描き起こしたのかも知れない。ネットに美術史家・青木茂<高橋由一「司馬江漢像」の成立について>があって、面白く拝読した。

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