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司馬江漢10:『蘭学事始』概要Ⅱ [北斎・広重・江漢他]

rangakukoto_1.jpg 杉田玄白は4年間で、原稿書き換え11回。前野良沢は蘭語の完璧解釈が目的だが、玄白は一日でも早く正しい解剖知識をもって治療に役立てたく『解体新書』を刊。

 前野良沢は蘭語勉強に生涯をかけ、中川淳庵は海外の物産研究へ。玄白の許に何度も質問状を送った奥州一関の建部清庵と玄白の往復書簡は『和蘭医事問答』にまとめられた。

 清庵は老人ゆえ門下の大槻玄沢を江戸へ上らせ、玄沢は先輩らに学んだ後に長崎へ。通詞宅寄宿で勉強後に江戸で『蘭学階梯』を刊。新井庄十郎は長崎の通詞の養子だったが、源内の許へ。後に福知山侯の地理学の手助けをした。宇田川玄隋は秀才で根気もあって『内科撰要』全18巻を刊。

 京都の医者・小石元俊は大槻玄沢宅に同居勉学後に、京都で蘭学を広めた。高橋宗吉は玄沢に入門後、大阪に戻って医者になって蘭学を広めた。山村才助も玄沢に入門後、新井白石『菜覧異言』に新知見と訂正を加えて全13巻を刊。

 石井恒右衛門(庄助)は長崎通詞の養子になって馬場清吉。定信侯は彼にドドニュース『本草書』を和訳させた。彼はまた『ハルマ辞書』も翻訳。桂川甫周は秀才でオランダのことは概ね通じて名声広く、将軍より和訳御用を承っていた。

kaitaikokkaku_1.jpg 稲村三伯は玄沢門下で蘭学を学び、全13巻の蘭日辞書『江戸ハルマ』を編纂。宇田川玄真は玄沢門下から甫周の塾で学び、杉田玄白の養子になるも放蕩が過ぎて離縁。その後に『医範提網』を刊。行いが改まったので玄白と昔通りの間柄になった。

 大槻玄沢は将軍家御所蔵の蘭書和訳を命じられた。玄真も同様拝命を受けた。オランダ通詞・元木栄之進の弟子・志筑忠次郎はオランダ文法を研究。文化年間に吉尾六次郎と馬場千之助他らが学んだ。千之助は天文分野で蘭学翻訳。

 『解体新書』から約50年で、かく蘭学は全国普及。その医術は人々の命を救い、鎖国の日本に西洋知識を普及させた。

 挿絵は前野良沢と杉田玄白。玄白資料が83歳の皺だらけゆえ少し若く描いた。写真下は『解体新書』の精緻な小野田直武の模写例(国会図書館蔵)。次回から司馬江漢の〝西遊〟について。

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