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司馬江漢17:悩ましき晩年 [北斎・広重・江漢他]

sensoujisiba2_1.jpg 江漢は長崎から戻って旅行記を、天文学や世界地理、物理などの新知識をまとめ、さらには油絵風景画の代表作を次々に発表。脂がのりきった観がするも、心は暗く、次第に隠棲を望むようになっていたらしい。

 推測するに、その一つの原因は、寛永5年(1703)からの蘭学者らとの孤立化。これは桂川甫周がロシア漂流の帰還者・大黒屋光大夫への質疑応答筆記『漂民御覧記』を批判してのこと。烏有道人筆(匿名)が「盲蛇」と題して〝汝は学者にあらず~不届千万なり〟と激しく逆批判。お抱え医・お抱え蘭学者と庶民学者・江漢の間に溝が生まれたこと。

 翌6年の『西遊旅譚』に久能山を描いたことで絶版命。寛政8年には『蘭学者芝居見立番付』で〝唐ゑ家のでつち猿松〟や〝銅(あかがね)やの手代こうまんうそ八〟と揶揄されたこと。

 江漢、ほとほと厭になったのだろう。文化3年(1806)、60歳になって柳橋万八楼で「退隠書画会」を行う旨の引札を配布。「今茲年已(すでに)耳順(60歳)気力且衰」によって業を門人に譲り閑居すると宣言。開催は翌文化4年だった。

 文化5年から〝江漢奇行〟のひとつ、9歳加算の年齢偽称が始まる。文化6年には浅草観音堂に納めた蘭油『錦帯橋景』が「衆之を奇とし、観るもの堵の如し(群がって)、清浄の地に南蛮の画を揚ぐるは不可なりと因(よ)つて終に之を撤せり」という事件も起きた。(西脇玉峰著『伊能忠敬言行録』より)

 なんと、80年後の明治23年刊の松本愛重著『本朝立志談』(国会図書館蔵)に、その想像情景図が掲載されていた(上写真)。文は「当時は西洋諸国を南蛮と卑しめける世の習いで、諸僧が清浄なる伽藍に蛮画を掲ふるは穢らハしといふ論起りてとり除きぬ」と説明。

 翌文化7年に慈眼寺に寿塔。これには私的な悩みもあったと推測される。「母七十三にして没しぬ。家を捨てゝ諸国遊覧と思ったが、人道にあらずと親族に諫められて~」、42歳で長崎に旅立った時は「宿(裏長屋)に妻子置きたる故~」で、この時には所帯持ち(入夫して一女を設ける)。

 だが『春波楼筆記』では「四十を過ぎて後妻を娶るべからず、人四十にして漸く精気衰ふ。女子と小人とは養ひがたし」「今に至りて考えるに、子は無きにしかじ」とも記していた。そんな精気衰ふが原因か、妻とは離別。娘に入夫された門人・江南は小胆者で間もなく不縁。持参金三十両で惣右衛門を入夫させたが早くに没で、二代目惣右衛門は俗人でままならず(昭和17年刊の中井宗太郎著『司馬江漢』より)。墓は自分で建てておく他になかったのだろう。

 かくして公私共に厭なことも次々に起こっての隠棲だろう。ついには己の「死亡通知書」配布に至る。隠棲となれば、筆峰は遠慮なく鋭くなる。次は晩年の著作集について。

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