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司馬江漢21:定信の子飼い亜欧堂田善 [北斎・広重・江漢他]

 司馬江漢シリーズ「終わり」予定も、小生は「ジャポニスム17~北斎が学んだ新画法」で「大久保純一著『北斎』では(北斎が学んだのは江漢の遠近法ではなく)年代的及び普及度から〝亜欧堂田善の江戸名所銅版画〟から学んだのだろう」なる記述を紹介した。やはり亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)も調べ知りたい。

 細野正信著『司馬江漢~江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売選書、昭和49年刊)他より「亜欧堂田善」を簡単要約でお勉強です。

 亜欧堂田善(善吉)は、延享5年(江漢生の翌年)に白河藩の中心地、福島・須賀川に生まれた。代々農具商の5代目の次男。兄は家業を継ぐと同時に狩野派に学んだ画家。善吉は兄から絵の手ほどきを受けた。兄弟はやがて染物業異国屋に転業。〝異国染〟は鈴鹿・白子で栄えた紙型(現在も文化財)で、同技術は「応仁の乱」で京都と伊勢に二分された。京都では雁金屋(尾形光琳の父)が隆盛を極めた。一方、伊勢の型彫師は全国行脚の商売で、吉宗時代に隠密的性格を帯びて名字帯刀。この伊勢系が江戸進出で「江戸小紋」になった。

 著者は、福島の異国染もそうして伝えられたものだろうと推測。善吉は型紙彫と併せて画業の精進も続けて、白河藩主・松平定信に認められた。天明7年(1787)、田沼意次が失脚後に徳川家斉が11代将軍で定信が老中へ。

 定信は、老中首座を退いた時点で『退閑雑記』を書き始めた。そこに寛政6年(1794)、善吉を見出してお抱え絵師・谷文晁に学ばせたとあるそうな。同年、江漢『西遊旅譚』で久能山を描いたとして絶版命。寛政8年頃に善吉は紺屋を知人に譲って白河城下に住み、定信の御用画家的存在へ。寛政10年、定信は彼を江戸藩邸に呼び寄せ「銅版法を習い製作せよ」と命じた。その時に見せられたのが大黒屋光大夫が帰国の際に持参したオランダ版世界地図。すでに江漢が模刻済も、さらに精密なものを作れと命じたらしい。定信『退閑雑記』と江漢『春波楼筆記』は、共に公開予定なしゆえ、互いに非難し合っている。

 善吉は4年ほど長崎で銅版画修行へ(ウィキペディア)。一方、定信は「寛政の改革」を展開。山東京伝が手鎖50日の刑、版元・蔦重が財産半分没収、恋川春町が自刃?に追い込まれている。文化2年(1805)、善吉は『鈴ヶ森』で銅板画・亜欧堂田善としてデビュー。号は定信が授けた。同年、江漢は59歳、田善58歳。すでに江漢は蘭学者グループから孤立し、同年の『頻海図』を最後に銅版画から手を引いた。

 田善は定信の力をバックに検印なしで銅版画を次々発表。銅板画が江漢から田善へ移行した裏には、びっしりと田沼意次~松平定信の政変があったと推測して間違いなかろう。著者・細野忠信は、田善を〝体制側子飼い名職人〟と評していた。その通り、田善は定信が致仕(隠棲)する文化11年頃には須賀川に帰郷。政局は再び田沼グループの水野忠成が老中へ。

 江漢の「死亡通知書」だが、死亡宣告後は市井の民としてホンネで生きて行こうという思惑もあったような気がしないでもない。「寛政の改革」で狂歌から身を退いた大田南畝(蜀山人)は「白河の清き魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)というて夜もねられず」とこっそり詠ったらしい。

 天明8年(1788)の江戸の町方人口136万8080人(これに武士・出家・吉原そして武士45万人がプラス)が、吉宗の重農主義で10年後の寛政10年(1798)には町方人口49万。江戸人口は1/3になった。細野著より)。

 なお田善は4年間の長崎修業をしたらしいが、同著には勝本清一郎が「田善はオランダに密航して銅版画を学んだという話は奥羽史料にもある」と記していると紹介。どの史料かは定かではない。これは余談になるが、勝本清一郎と云えば、永井荷風の別れた妻・静枝のその後の若い愛人。その後も竹下夢二の愛人から徳田秋声と同棲した山田順子の恋人でもあった人物。その顛末は、徳田秋声自身が書いているそうな。

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