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明治改造に取り残されて(3) [千駄ヶ谷物語]

sendagayatizu2_1.jpg 千駄ヶ谷「鳩森八幡神社」一帯についての多少を知ると、概ね次のように時代大別が出来そう。

 ①江戸時代の長閑な暮らしと風景。②明治政府による御所・神社・公園などの大改造。③朝鮮戦争~東京オリンピックまで千駄ヶ谷駅周辺にあった〝連れ込み旅館〟全盛時代。④現在の新国立競技場・アパレル系商店・寺院混在状況。

 なんとも複雑な経緯を有した一帯です。まずは②明治政府による御所・神社・公園などの大改造について。同地域を囲んで北から東へ広大な「新宿御苑」~「神宮外苑一帯」~「赤坂御用地」が連なっている。反対側の西側が「明治神宮・代々木公園」。それぞれの設立経緯を簡単にまとめてみる。

 「新宿御苑」は徳川家康が江戸入りして家臣・内藤家に与えた広大地のなかの下屋敷。明治になって牧畜園芸改良の試験場になり、明治12年(1879)に皇室献納で「新宿植物苑」。皇室のゴルフコースも出来ていた。昭和24年(1949)に国民公園になって一般開放。当時、幼児の吾輩はオタマジャクシ採りに夢中になって池にドボンと落ちた。泣きながら大木戸門前の親戚の家へ走った。

 「明治神宮外苑一帯」。江戸時代は各藩下屋敷や御鉄砲場などで、明治19年(1886)に陸軍用地になって練兵場、陸軍大学などが移転して来た。当時の地図を見ると、千駄ヶ谷駅~信濃町駅を北端に、青山通りまでが広大な青山練兵場。その陸軍が代々木に移転(代々木公園、代々木体育館、渋谷公会堂、NHKなど)後の昭和1年に(1929)に明治絵画館、銀杏並木、記念記念館、運動場、野球場、競技場が造営された。

 その南側が「青山霊園」。明治5年(1872)に美濃郡上藩主・青山家の下屋敷跡に開設。ここの外人墓地調べで幾度も通ったことがある。

 「神宮外苑」のさらに東側が広大な「赤坂御用地」。元紀州徳川家の上屋敷で、明治維新に接収され皇室に献上。御所、各宮邸、赤坂御苑、迎賓館など。

 「明治神宮」は肥後藩主・加藤家別邸や彦根藩・井伊家の下屋敷。明治7年(1874)に明治政府買上げで「南豊島御料地」へ。明治45年(1912)の明治天皇崩御で、大正9年(1920)より造営開始で明治神宮へ。

 これらによって、延々と続いてきた江戸時代の環境・景観が一変した。それら施策に囲まれるようにポツンと取り残されて、江戸時代の面影を残したのが「鳩森八幡神社一帯」と云えそう。

 こう理解すれば、次に明治以前(江戸時代)の同地域がどうだったかが知りたくなってくる。そこで「江戸名所図会」をひも解けば「千駄ヶ谷八幡宮・千駄ヶ谷観音堂・仙寿院・竜岩寺」が描かれていた。次に「絵本江戸土産」を見れば「青山新日暮里・仙寿院・竜岩寺」などが描き残されていた。次回はこれら図会から千駄ヶ谷の江戸散歩です。

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