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八幡神社別当・瑞円寺の無縁墓塔群(9) [千駄ヶ谷物語]

zuienjihondo_1.jpg 瑞円寺は「江戸名所図会」で〝鳩森八幡神社の別当は真言宗高雲山瑞円寺〟と記されただけで、絵もなかった。当時は〝鳩森〟を記すこと=別当寺・瑞円寺の説明になったのだろう。

 別当寺が亡くなったのは尊王攘夷、討幕の明治政府が〝神道国教化〟を浸透すべく「神仏分離令・廃仏毀釈」の暴挙展開によるのだろう。従来の神仏習合、寺が神社管理を行う事を禁止。神社は菊の御紋を戴いて〝神の国〟へ。併せて全国津々浦々に明治天皇の御真影が浸透した。

 かくして「明治神宮」「明治神宮外苑」「赤坂御所」などが造営され、「新宿御苑」も皇室御料地へ。国立競技場も当初は〝明治神宮外苑競技場〟で、学徒出陣壮行会・会場にもなった。それら明治・大正時代に造営の広大諸施設に囲まれて、江戸時代がポツンと残されて肩身狭そうな千駄ヶ谷のお寺たち。徳川宗家を継いだ徳川家達邸もあった。

zuienmuen_1.jpg ここではもう少し瑞円寺について「渋谷区史」などから要約してみる。

 曹洞宗高雲山金剛院。千駄ヶ谷八幡の別当寺。江戸時代初期に寺領寄附が行われたらしい。当初の境内は3534坪。本尊は釈迦如来。塔頭江心院、鎮守稲荷社、白山社などがあって「東都歳時記」の弁財天百社参りに30番とあり。参拝者も多かったらしい。安政2年の大地震、翌年の風害、前述の神仏分離などで衰退。明治42年に本堂を再建らしい。

 現・瑞円禅寺の山門を入った正面に、驚くほど多数の無縁墓塔や地蔵類が小山を成して、歴史の重さを物語っている。昨年、この景とそっくりに描かれた絵を見たばかり。画面一杯に無縁墓塔や地蔵類が描かれ、余白にびっしりと文字が書き込まれていた。画家の名は不染鉄。その文一部はこうだ~。

 お墓は淋しいと言ふけどそうでもないよ。色々な人が沢山いてとてもにぎやかだよ。男も女も若い人年より娘さん赤ちゃん、どんな人もいるねぇ。元禄だの寛永だのと書いてあるのもある。苔がついて、白緑色のはん点がついて大変美しい。(中略)色っぽい目の年増女もいたろう。見たかったなぁ。がめつい奴もいたろう。(略=今はお墓になって)皆な仲よく、けんかもしない、いぢわるもしない(略)。

 此のお地蔵様達は父のようでもあり母のようでもある。(略)先生や友達が出てくる。(略)皆様のお墓まいりもちっともしないが、今思い出でむねが一パイになってこの図をかいているよ。(略)有名になれず、こんな画をかくようになっちゃった、だけどいゝよねぇ。

 描かれたのはたぶん奈良あたりのお寺の景だろうけれども、東京は千駄ヶ谷でもそんな気持ちにさせてくれるのが鳩森八幡神社の元別当寺・瑞円寺。いゝよねぇ。

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